母 芽衣の述懐-1
次の日、恵介は母を前に少し緊張していた。
「どうしたの?改まって。なにかあった?」
芽衣が顔を覗き込みながら聞いた。
「ああ。まあ、ちょっと唐突な質問だけどな。」
「あら、何かしら。」
「あのさ。女にとっての、初めての相手っていうのは、どれほど重要なものなのさ?」
「初めての相手?ああ、セックスの相手のことね?」
「相変わらずストレートだなあ。」
「話は分かりやすいのがいいわよ。言葉を濁したり遠回しに話しても、
お互い解釈の違いがあったりするんだから。
特に相談事はストレートが一番。で、美沙希のことね?」
「あ、いや、その、一般的に、どうかと思ってさ。」
「ほら、そうやって言葉を濁すこと自体が怪しいの。
一般論と実の妹、実の娘のことじゃ、同じ結論じゃないかもしれないでしょ。」
「じゃあ、一般論だったら、どうなのさ。」
「そうね。それはもちろん、その人によるわ。」
「相手の男ってこと?」
「それもそうだけれど、女の子の方もよ。」
「人それぞれに考えは違うってこと?」
「当たり前でしょ?貞操観念とか社会規範とか、倫理観とか道徳観とか、
一般には、世間的には、およその規準はあるけれど、
そのことをどう受け止めるかは人それぞれでしょ?」
「つまりは個別、ってこと?」
「最終的にはそうね。でも、それだけじゃないわ。
その時どうか思うかも大切だけれど、
将来どう思うかも実はとても大切なことだと思うの。」
「じゃあ、今の判断や受け止め方が将来変わるかもしれないってこと?」
「もちろんよ。例えば、一度好きになった人を一生好きでい続けることは難しいわ。
反対に、一度嫌いになったからといって、一生好きになれないかどうか。
人間の気持ちはもちろん、判断の規準も、価値観も、
年齢や経験で変わっていくものよ。」
「ちなみに………お袋の初体験は誰だったの?」
「わたしの初体験?話したこと、なかったっけ?」
「いや、言いにくかったら別にいいんだけど。」
「そっか。以前に話したような気もするけれど。
でも、改めて話した方がいい気もする………。
そうね。じゃあ、美沙希も一緒にいるところで話すわ。」
「美沙希も?」
「ええ。美沙希にもいずれ話した方がいいと思っていたし、
かといって何度も話したい話でもないから、一緒にね。」
「美沙希は、今日は部活はないって言ってたけど。」
「じゃあ、夕飯が終わったら話すことにするわ。
お父さんにもいてもらった方がいいから。」
「親父にも?」
「ええ。お父さんは知っている話だけどね。
恵介にはもちろん、美沙希にとっても、必要なアドバイスをしてくれると思うわ。」
その日の夜。
夕食が終わり、香田家の家族は久しぶりにそろってリビングにいた。
「今夜は恵介の質問に答えようと思って。
美沙紀を呼んだのはあなたにも無関係な話じゃないからよ。」
「なんかちょっと大袈裟じゃないのか?オレはもっと気楽に聞いたつもり。。。」
「つまり、お母さんの答えは気楽になんか答えられないこと、ってことだ。」
雅樹が笑いもとらずに真面目に言うのを聞いて、恵介と美沙紀は思わず座り直した。
「二人に一般論を言うつもりはないの。これはあくまでもわたしの考え方だから。」
「ということは、我が家の考え方だということだ。」
雅樹がすかさず芽衣の話を受けた。
「あら、嬉しい。強力な味方が出来たわ。」
「別に子どもたちと対決するつもりじゃないだろ?味方だなんて。」
「じゃあ、共感者、とでも言えばいいのかしら。」
「まあ、そんなところだ。」
「じゃあ、早速本題に入るわね。
もしも途中で感情的になったり取り乱したりしたらゴメンね。」
その言葉に美沙希が敏感に反応した。
「エッ?お母さん。そんなつらい話になるんだったら、無理に話さなくても。。。」
「ううん。いずれ、時期が来たら話さなくちゃいけないって思ってたし。」
「それが親の役目だとも、お母さんは思ってるんだ。な、芽依。」
「そうね。だからお父さんにもいてもらっているの。
お母さんの一番の理解者だからね。今も、昔も。」
「もちろん、未来もさ。」
「お袋。オレが聞きたかったことの答え、もう、なんとなくわかった気がするよ。
今の、親父とお袋のやり取りを聞いていたら。」
「そう。それはそれで嬉しいわ。
でも、想像や憶測で物事を判断しちゃダメよ。
真実をしっかりと見極める。そのための情報収集は怠らない。」
「そう。多すぎる情報に流されてもいけないが、
少なすぎる情報で安直に判断するのも良くない。
結局は自分の判断力だ。
生きるってことは、その力を養っていくことだ。」
真面目な話をどんどん難しい話にしていく、いつもの雅樹の悪い癖だ。
「ま、難しい話はさておいて。
恵介の質問はこうだったわね。
女にとって、初体験の相手はどれ程重要か。
それと、わたし自身の初体験は?。
この二つで間違いない?」
「芽依。君の初体験のことまで話す必要があるのか?」
「親にできることは自分の成功を伝えることじゃない。
むしろ失敗こそ伝えるべきだと思うわ。」
「お母さんの初体験は失敗だったの?」
美沙希は意外、という顔をして母親に聞いた。
「失敗だったかどうかは、
誰がいつ決めるのかを考えてもらいたいから、この話をするのよ。」
「うん。多くの情報に流されず、少ない情報に囚われず、
自分の頭で考えろってことよね。」
美沙希は自分に言い聞かせるようにそう言った。