液浸-13
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エピローグ……
私はこの夏、あの別荘を訪れた。私が夫と結婚するとき、彼を母親のカヅエに初めて紹介し
た場所がここだった。別荘はすでに競売に出されていたが買い手はつかずそのままの状態で
保たれていた。不動産会社の若い社員は快く私を迎えてくれ、建物の中に入れてくれた。
別れた夫とカヅエが、突然、消息を絶ってからもうすぐ七年になる。当時、警察は事件の可
能性もあるとみて捜査を続けたが、ふたりの行方はわからなかった。消息を絶つ直前、別荘
いたことだけはわかっていたが、手掛かりになる痕跡は何もなかった。ただ、カヅエの遺書
らしい書置きが残されていたことで、警察は捜査を打ち切った。
別荘の部屋の窓から樹木の香りがしっとりと澱んでくる。窓の外に拡がる鬱蒼とした森は、
あの頃の懐かしい夏の光を斑に含み、物憂げな翳りを溜め、見上げた空には白い夏雲がゆっ
くりと流れていく。
部屋の中のふたりの痕跡はすべてぬぐい去られ、真新しい壁紙や床に変わっていた。ただ、
アンティークな趣のある年代物の家具だけは、あのときのままだったが、どれも息をひそめ、
ひっそりと色褪せた記憶をにじみ出していた。
私にとってカヅエは母でありながら、ひとりの女だった。母と娘でありながら、私たちの
確執は、母が再婚相手としてあの男を私に紹介したときに、より確かなものになったような
気がする。私は幼少のとき失った父親の記憶がほとんどなかった。そして思春期を迎えた頃
からカヅエが着飾る姿を嫌悪した。彼女の口紅やイアリングを、首筋から匂いたつ香水を、
毒々しい色の下着を、そして彼女の体にいつも漂う男たちの影を嫌悪した。カヅエも、また
父親似の私をひとりの女として見るようになった頃から鬱陶しく感じていたようだった。
カヅエと再婚相手のあの男がいっしょに暮らすようになった頃、まだ独身だった私は、すで
にカヅエとは別居の生活をしていたが、それでもカヅエは、自分の男から私を遠ざけるよう
な、ある種の嫉妬に似たものをいつもいだいていた。彼女はその男に漂う私の《ある種の匂
い》を敏感に嗅ぎ取っていたのだ。
カヅエから再婚することを告げられたとき、私はカヅエの相手の男がどんな人物なのか関心
がなかった(もっとも、そのときの私は母親のカヅエの存在すら忘れかけていたのだから)。
そんなときだった。六本木の喫茶店でその男から声をかけられたのだ。そのころ私は、ある
SMクラブのS嬢として夜の顔を持っていたが彼は私を指名してきた客だった。
彼は私が会うべきでない過去の男だった。そして、その男こそカヅエの再婚相手だったのだ。
男と会うのは七年ぶりだった。どこからか甦ってくる彼の独特の匂いに引き寄せられた私は
その頃まだ大学生だったが、彼に虜になり特別な関係をもっていた。私は奇譚サークルとい
う会員制のSM密会で高額な報酬によって誘われた女性たちのひとりだった。女性たちは
嗜虐と恥辱によって苦痛に晒され、男たちの快楽の対象として貪られた。
私はそこで彼と知り合い、個人的につき合うようになっていた。彼との密室の快楽……それ
は淫蕩で濃厚な男と女の関係だった。私は初めて自分の底知れない心と性の快楽を知った。
彼の所有物となる快楽を。容赦ない嗜虐の対象として私は彼に扱われた。二年ほどつき合っ
たあと、彼はパリの病院に赴任したことで私と彼との関係は終わった。