第三話-4
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入浴後の夕食をすませて自室に戻ると、孝顕は床に放ってあった鞄から携帯を取り出した。履歴をチェックすると案の定、佐伯からの着信がある。無視も出来ずかといって掛け直したくもない。どうしようかと思っていたら呼び出し音が鳴った。無意識に眉をひそめながら通話ボタンを押す。
「……はい」
『今晩は、夜刀神君。そろそろ家にいる頃かしら?』
「はい」
佐伯の声に不快感を覚えながらも、感情を消した声で同じ言葉を繰り返した。
『この頃、あまり応じてくれないのね』
佐伯の声以外、特に何も聞こえてこない。彼女はまだ学校にいるのだろうか。
「すみません、先生」
『まあ、可愛いガールフレンドがいるんじゃ、それも止む無しかしら』
通話口の向こうで、楽しそうにころころと笑う女に棘を感じ微妙に苛ついたが、穏やかな口調で話し続ける。
「先生との噂を立てられるよりもいいと思うのですが」
『あら。カノジョを隠れ蓑にするの?』
「いけませんか?」
問いに対して問いで応える孝顕に、佐伯の笑みが深くなった。
『ふふふ……。酷いのね、兼山さんが可哀相だわ』
「ですが、動きやすくなります」
『帰宅が遅くなったり急な予定が入っても、言い訳に使えるし?』
「そんなところです」
言葉を続けるより早く、佐伯が一方的に答えを出してくれたので、孝顕はそのまま同意した。
「なので、彼女にも付き合わなければいけません。時々は先生に応じられない事もあると思います」
『そうね……。そういう事なら仕方ないわね。でも、今日みたいなのは駄目よ。連絡はちょうだい』
「はい。出来る限りそうします」
会話が終わって一拍、含み笑う声がする。不穏な気配に孝顕の心臓が跳ねた。
「……どうかしましたか?」
『別にどうもしないわ。夜刀神君も、色々考えているんだなって思ったらつい』
「…………」
何気ない口振りだったが、携帯を持つ孝顕の手にじわりと力が入る。苦行のような無言の数秒間の後、通話口の向こうから暢気(のんき)な笑い声が響いた。
『それじゃあね、夜刀神君。また明日』
佐伯の軽やかな笑い声が遠のきプツリと音が途切れ、気の抜けた信号音に切り替わった。
「────っ」
携帯を閉じると、孝顕は崩れるように椅子に腰を落とした。息を吐き出しながら、目の前の机にぐったりと身を伏せる。
頬に当る堅い木の感触が冷たくて気持ちがいい。せっかく風呂に入ったのに、背中が汗で湿っている。携帯を握りこんだ両手を腿の間に挟み、落ち着くためにゆっくりと呼吸を繰り返した。心臓の鼓動がやけに煩くて耳障りだと感じる。
緊張に張り詰めた身体が、滑稽なぐらいがたがた震えている事に気づき、笑いがこみ上げた。
「……っは、はっ……。っはははははっ……」
絞り出すように声を漏らす。
会話中はどうなることかと恐ろしくて仕方が無かった。駄目かと焦ったが、どうにか切り抜けることが出来たらしい。
(はじめてだ……)
初めて、先生には応じられないと言った。
勿論(もちろん)全ては不可能だろう。だが、少しでも彼女から自由になれる。今はそれが嬉しかった。
大丈夫、何とかなる。
訳もなくそう思えた。自分の意思を相手に通したことで、ささやかではあるが気持ちが浮上していた。
大丈夫。
大丈夫──。
呪文のように何度も頭の中で繰り返しながら、小さな声で笑う。
「ふっふふふふふっ…………」
気が済むまで笑った後、不意に口をつぐんだ。
静かになった室内に、棚に置いてある時計の秒針が微かな音を奏でている。ゆっくりと目蓋を閉じた。
青空に映える眩しい笑顔が脳裏に過ぎる。
(ごめんね──)
心の中で、そっと詫びた。
◆ ◆ ◆