亜紀-8
「小野田さん。まだ私が分からないの?」
「は? どなたでしたっけ?」
「私よ」
「えーと、橋本亜紀さんでしたね」
「そうよ」
「以前何処かでお会いしましたか?」
「はい」
「えーと、教団にお見えになるのは今日が初めてですよね。どちらでお会いしましたでしょう?」
「自転車置き場で」
「え? あっ、ひょっとすると君は・・・」
「はい、私、小野田の婚約者でございます」
「馬鹿っ、いや声を落として」
「大きな声を出しているのは小野田さんの方じゃないの」
「なんで君がこんな所にいるんだ。いや、なんでこんな所に来たんだ」
「相談事があって参りましたのよ。それで今此処におりますの」
「馬鹿っ、いや、君は真面目なのか?」
「はい、真面目に体験させて頂こうと思いまして」
「そうか、それなら仕方無い。お好きにどうぞ」
「でもちょっと心細いから私の体験修行の時一緒に行って頂戴」
「そんなことは出来ない。僕は経理職員なんだから」
「あら、指導教師の先生に聞いたら、職員も皆時々は修行に参加させておりますって言っていたわよ」
「それは他の職員のことだ。僕は今までどんなに声が掛かっても参加したことは無いんだ」
「それじゃ丁度いい機会だから一緒に参加しましょうよ。自分の働いている教団なんだから、どんな修行か1度くらい体験しておかないと」
「君は一体何の悩みがあって来たんだ。どれ・・・、恋の悩みと書いてあるな。何? 君の失恋した相手というのは中年の男だったのか」
「はい、3年前に奥さんを交通事故で亡くした方で、今でも奥さんを忘れられなくて私がこれほど愛しているのに気付いて下さらないんです」
「何? ふざけてるのか君は? 3000円も使って。なんだ年も偽っているな」
「でも26才に見えるでしょう?」
「女は化けると言うが本当だな」
「仕事が終わったら又あの喫茶店で待っていて、ううん私が先に行って待っているから必ず来て」
「一体何を企んでいるんだ、君は」
「それを話したいからきっと来てね」
亜紀はわざとらしくもう1度ウインクしてクルッと振り向くとすたすた行ってしまった。
喫茶店に行くと当たり前の話だがさっきと同じ服装で亜紀がいた。中学生のように見えた時と同じ席に座っていたが、今は中学生にはとても見えない。
「指導教師に聞いてみたが、君は本当に僕のことを相手に恋をしているみたいな話をしたらしいな」
「はい、ご飯が喉を通らないくらいなんです」
「いつまでふざけているんだ」
「だって相手が思いつかなかったんだもの」
「人のことを婚約者と言ってみたり失恋の相手にしてみたり、一体どこまでふざけているんた」
「だからちょっと話を作っただけじゃない」
「それで君は体験修行に参加してどうするつもりなんだ」
「どうするって唯体験してみようと思ったのよ」
「君は後先考えもせずにとんでもないことをするんだな。だから子供だって言うんだ」
「ちょっと体験するだけだからいいじゃない」
「体験修行に参加した者の100パーセントが少なくとも50万円の奉納金を払っているんだぞ」
「えー、50万円?」
「そうだ、おふざけで払えるような金額では無いだろう」
「でも1万円の参加費だけ払えばいいと言っていたわよ」
「向こうに行ってしまえばそれでは済まなくなるんだ」