亜紀-22
「それでですね。僕と彼女のことはまだ秘密にしておきたいので、大竹先生には事情を話したく無いんです。大竹先生にすれば嘘の悩み事を持ちかけられた訳ですから、いい気分はしないでしょうし」
「ああ、それはそうだわね」
「それで異例の事なんですが、彼女を何らかの理由を付けて先生の直接の担当信者ということにして、扱って頂けないでしょうか」
「ああ、そんなこと。それはお安いご用だわ」
「それは助かります。なんとお礼を申し上げて良いのか・・・」
「明日にでもその子の相談カードを私によこしなさい。私が全部処理して上げるから」
「有り難うございます。本当に助かります」
「その代わり小野田ちゃん、分かっているわね」
「は?」
「私の頼みも聞いて頂戴よ」
「はあ、何でしょう?」
「向こうに行ったら言うわ」
「はあ」
健介は話の流れを逃してはなるまいと必死にまくし立てたのだが、あの腹立たしい亜紀の為にやっているのかと思うと激しい自己嫌悪にさいなまれて話がとぎれがちになる程の怒りを感じていた。そこへ来て今度は管長補佐の頼みを聞かなければいけない立場に立たされてしまった訳で、踏んだり蹴ったりというのはこういうことだと思った。何か知らないが、どうせろくな頼みである訳がない。
山に来たのは健介も初めてだが、それは実に辺鄙で不便な所にあった。車を降りて1時間も歩かないと山門に着かない。そこから更に30分険しい山道を歩いてちょっと開けた場所に出る。そこから右に行くと滝があり、左に行くと寺の本堂があるのだという。運転手の富田君は大きな荷物を抱えて左に行った。健介と管長補佐は右に進んだ。曲がりくねった山道を歩いていると滝の水音は聞こえるのに、姿は一向に見えない。そして突然見えた時には驚いた。結構大きいのである。こんな滝に本当に打たれるのだろうかと思った。滝の近くに粗末な小屋があって、一応男女に分かれている。そこで着替えをするようになっている。健介は今朝になって海水パンツなど持っていないことに気付いて、トランクスの下に亜紀の買ってきたブリーフを穿いた。これも又癪に障ることである。バス・タオルの入ったバッグを小屋の中に置いて服と靴を脱ぎ、小屋の中に沢山あるサンダルの一つに履き替え、トランクス姿で外に出ると管長補佐が立っていた。
「先生は滝に入らないんですか?」
「入るわよ。小野田ちゃんの手を握って離さないと、婚約者に約束したんだから」
「では着替えは?」
「着替えは中に置いてあるわ」
「それじゃ待っていますから」
「何を言ってるの。私が待ってたのよ」
「は?」
「私はこれで滝に入るの。着替えは帰りの為の着替えよ」
「でもそれじゃ・・・」
「それじゃ何?」
「いや、その寒いんじゃないかと思いまして」
「何言ってるの。山歩いて汗だくだくよ」
「はあ」
「さあ行きましょう」
「はあ」
水に濡れなくても透けていそうな服である。濡れればどうなるか分からない訳は無いだろうに、そのまま滝に入ると言う。驚いた顔を見て楽しんでやろうという悪趣味に答えてやる必要も無いので、透けるんじゃ無いのかとは敢えて言わなかった。尤も、透けないように肝心の所には小さな下着をつけているに違いない。
「先生はいつも滝に打たれる時、その服装で入られるんですか?」
「この服着て此処に来たのは初めてよ」
「そうですか」
「私の手を離したら駄目よ。滝に打たれるの初めてなんでしょ?」
「はい」
「真下に行ってしまえば大丈夫だけど、そこに行くまでがちょっと危ないから」
「真下は滝壺で深くなっているのですか?」
「それじゃ溺れて死んじゃうわよ。ちゃんとコンクリ打って浅くしてあるのよ」
「でもあの勢いだとコンクリもすぐ穴が開いてしまうんではないですか?」
「だから時々水門締めて補修してるのよ」
「水門?」
「水門締めるとあの水は止まっちゃうのよ」
「ああ、なるほど」
「さあそろそろ滑るから気を付けて。上を見たら駄目よ」
「はい」
滝の水は外から見ていた時より遙かに激しく感じた。まだ真下にはほど遠いのにもうかなりの水が掛かってくる。深さはまだ膝の辺りまでしか無いが、たったそれだけなのに水の中を歩くというのはかなり難しいものである。