『第3章 そのチョコを食べ終わる頃には』-7
「素敵なお店ですね」
「ちょっと良い感じだろ?」
「ご常連なんですか? 沖田先生」
沖田は頷いた。「よく一人で来るね。大切な人と話したい時もここを使う」
「大切な……人?」
私は目を上げ、前に座った沖田の目を見つめた。
「コーヒーでいい?」
沖田はにこにこ笑いながら言った。
二人の前に置かれたカップから湯気が立ち上っている。
「利恵先生、ご主人の具合はどう? 車椅子の生活も大変でしょう?」
「はい。でも毎日リハビリを続けてます」
「その……リハビリを続けていればまた歩けるようになるの?」
「わかりません。でも彼はそう信じてます」
「うん。大事なことだね。何でも希望を捨てなければ道は開けるってもんだよ」
「ありがとうございます」
「結婚して何年?」
「今年で四年目になります」
「そう。お子さんは?」
「三歳です」
沖田は少し考えて言った。
「こんなこと聞くのは失礼なんだけど、ご主人は車椅子なのに、よく子供ができたね」
「彼が怪我する前に授かったんです」
「そう、それは幸運だったね。ご主人のリハビリの励みにもなるね、子供がいれば」
「はい。そうですね」
私の胸の熱さは収まる様子がなかった。目の前にいる男性が自分のことを心配する言葉を掛けてくれる度に、私の気持ちはどんどん妖しげな色を帯びてきていた。
「出ようか」
コーヒーを飲み干した沖田が言った。
「すみません、出してもらっちゃって」
「何てことないよ。コーヒー代ぐらい」
沖田は笑ってコートの襟を立てた。
私と沖田は、あてもなく賑やかな界隈から離れた狭い通りを歩いていた。周囲の様子は次第に寂しさを増し、うつろで儚げな白い光を投げかける街灯がぽつりぽつりと立っていて、場末のもの悲しさをいっそう際立たせていた。不意に吹きすぎる冬の風が頬を撫で、私は思わず身を縮めた。
「寒い?」
沖田が低い声で訊いた。
「は、はい。少し……」
「暖かい所に入ろうか」
私は目を上げて沖田の顔を見た。
彼は、私が今まで目にしたことのない真剣で熱い瞳を私に向けていた。
私の身体の疼きは限界に来ていた。私の頭には夫、剛の笑顔が浮かび、自然と目に涙が滲んだ。
もうムリ! 我慢の限界! 私は心の中で叫び、胸を押さえてぎゅっと目を閉じた。
気づいた時には、街灯から降り注ぐ冷ややかな光の下で私と沖田はその唇を重ね合っていた。
ネクタイを外し終わった沖田は、シャツの上から二つのボタンを外し、私の上着を脱がせてブラウス一枚の姿にさせると、頬を両手で包み込むようにしてそっと唇を求めてきた。私はそれに応え、少し口を開いて受け止めた。沖田の手が私の背中をさすり始めると、私も彼の背中に腕を回した。いつしか二人はその舌をもつれ合わせていた。私は長い時間、その柔らかく温かい彼の唇の感触を夢心地で味わっていた。
沖田は先に私をバスルームに促した。
シャワーを浴びながら、私はこの艶めかしい部屋に入るまでは感じていなかったちくちくとした胸の奥の痛みを覚えていた。身体にこびりついた夫への罪悪感を洗い流すように、私はノズルを全開にしてこの全身にシャワーの湯を浴びていた。