『第3章 そのチョコを食べ終わる頃には』-16
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「そうでしたか」
遼は話が終わって、何かに解き放たれたような表情の利恵を見て少し寂しげに微笑んだ。
「こんなプライベートな話を聞いてくれてありがとう、秋月くん。自分だけの胸に仕舞っておくのって、ほんと苦しいもんだね」
利恵は眉尻を下げて首筋を人差し指で掻いた。
「僕でもお役に立てましたか?」
「お陰さまで」
利恵は寂しそうに笑った。
「剛さんは今もご存じないわけですよね?」
利恵は頷いた。「いずれは話すかも知れない。でも、今はもう少し時間が欲しいの」
「もう10年も経つわけでしょ? 今の剛さんならわかってくれると思いますよ。話してみられたらどうですか? 先生も胸のつかえが苦しいでしょう」
「それはそうだけど……でも、彼もそういうことは秘密にしろって言ってたし……」
遼は優しい目を利恵に向けた。
「剛さんとの約束は『気づかれないように』ってことだったんでしょ? 先生はそれをちゃんと守り抜いたじゃないですか。先生が沖田さんとの関係を持っていた時、剛さんはそれに気づいていなかったわけでしょう?」
利恵は申し訳なさそうな顔で頷いた。
「だったら問題ないと思います。今、先生が過去の後ろめたさをずっと心に留めて苦しむより、一番近い剛さんに打ち明けて、先生自身の心の中の蟠(わだかま)りを取り除いてすっきりした方が、貴女たちご夫婦にとっても最善のことだと思います」
「そうなのかな……」
遼は優しく微笑んだ。
「時間が味方をしてくれてますよ、先生」
利恵は何も言わず遼を見つめ返した。
「よくドラマなんかであるじゃないですか、昔好きだった人と再会して、再び燃え上がる、なんてこと。でも現実はそうはならないことを僕は知ってます」
利恵は小首を傾げ、瞬きをした。
「もしかして先生は、かつて心を熱くした沖田先生と今再会したら、自分の気持ちがかき乱されるんじゃないか、って思ってらっしゃるんじゃないですか?」
利恵ははっとして遼の目を見つめた。遼は穏やかな口調で続けた。
「僕が先生とお別れした時の気持ちが、この夏に再会した時に蘇ったかというと、それは不思議とありませんでした」
「そう……なの?」
「先生も同じように思われたかどうかわかりませんが、僕たちが再会した時、あの時とは違う気持ちになっていることに気づきました」
「違う……気持ち?」
遼は一つ頷いた。「ただ単に恋愛感情がなくなった、ということじゃなくて、この人との過去が今の新しい自分に繋がっているんだ、って。今の自分がこうして喜んだり懐かしんだりしていることの糧になっているんだって。だからその時先生に対して抱いたはの恋愛感情ではなくどちらかと言うと『感謝する気持ち』でした。」
「……そうなのね」
遼はテーブルに置かれたアロマディフューザーに目を向けた。
「ローズマリーの香りを嗅いでも、今は気分がリラックスする効果の方が大きいんです。もちろんあの時の先生との時間を思い出しもしますけど、それはもうアルバムの中の写真のようにピンで留められた動きのない思い出になってしまってる。そういう意味で先生は僕の恩人です」
「恩人?」
「過去のいろんな出来事が今の僕を形作っているわけですけど、その中でも先生との出会いとあの三週間の濃い時間は、例えば剣道を始めたとか妻の亜紀と出会ったとかいうイベントと並ぶ僕にとって今の人生を送るためになくてはならない重要な出来事の一つなんです。だから恩人」
遼はにっこり笑った。
「先生がそのうちご主人の剛さんに、今ここで僕に話されたことを打ち明けることができたら、たとえ沖田先生と再会しても、もう昔のような気持ちを抱くことはない、と僕は思います」
「秋月くん……」
「先生はすでに10年前とは違う新しい時間を生きてるんですよ」
利恵は目に滲んでいた涙を指で拭って恥ずかしげに微笑んだ。
「ありがとう、秋月くん。ほんとにありがとう……」
「ガラにもない気障なことを口走ってしまいましたね」
遼は赤面して頭を掻いた。