『第2章 その秘密の出来事は』-1
第二章《その秘密の出来事は》
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高校一年の秋。剣道部に所属していた秋月遼(15)は、他の部員に比べ、まだ華奢な体格だった。
夏の暑さも遠のき、校庭の紅葉葉楓の葉が美しい紅色に染まりかけた十月初め、学校に教育実習生が三人やって来た。その中の一人、横浜の大学の教育学部で社会科を専攻しているという岡林利恵(24)が遼のクラスの担当になった。そしてそれから三週間の間、いつもは担任から受けていた現代社会の授業は利恵が代わりに受け持つことになった。
彼女の二回目の授業で提出したノートが次の日に戻ってきた時、遼はそこに朱書でびっしりと書かれた内容に感動していた。今までの授業では、すでに初老の域に達した担任は味気ない検印を押して返すだけだったのだ。その上利恵の字は、今まで遼が見たことのないような整った、大人びたものだった。授業中も利恵は他の教科の現役の教師と比べても落ち着いた態度で、説明もとてもわかりやすかった。元々現代社会の授業が好きだった遼は、その授業の間、教科書よりも利恵の姿を見ている時間の方がはるかに長くなっていた。彼女がこの学校に来てからいくらも日が経たないうちに、遼は利恵に少しずつ興味を抱き始め、利恵と個人的にもっと語り合いたいと思い始めていた。
利恵たち実習生が学校にやってきて三日目の放課後、学級委員長の遼は教室に残されていた出席簿を届けるために実習生の控え室を訪ねた。
利恵は二客平行に並んだ長机のひとつに向かって実習ノートを広げていた。遼は背筋の伸びたその凜とした姿に図らずも心を熱くしていた。
「あら、秋月くん。どうしたの?」
利恵は顔を上げて遼に微笑みかけた。
「あ、あの、出席簿を……」
「あらあら、私持ってくるの忘れてたのね。どうもありがとう」
利恵は立ち上がり、遼のそばにやってきて、そのぶ厚い表紙の出席簿を受け取った。
ほんのりと爽やかなハーブ系の香りがした。
「ちょっと話していかない?」
利恵は遼を隣の椅子に座らせた。
遼は授業のこと、部活のことなどを利恵に話した。そんなとりとめのないことでも、利恵は度々頷きながら微笑みを絶やさず訊いてくれた。濃紺のスーツを着ていた利恵は、話の途中で暑いねと言いながらおもむろに上着を脱いだ。
実習生は利恵の他にも二人いた。そのうちの一人は理科専攻で、自身もまだ若く、クラスメートたちから青い青いと半分馬鹿にされている化学の男性教師中村に命令されて、ずっと理科室で専ら助手として働かされていた。もう一人は剣持という地元出身の体育の男子実習生だった。彼の専門は剣道で、遼も所属する剣道部の指導に毎日やって来ていた。
利恵は大学を一浪していたので、他の二人の実習生よりも一歳年上だった。
ドアが開き、大柄な剣持が入ってきた。一瞬立ち止まって遼と利恵の姿を見た彼は、タオルで汗を拭きながら奥まで歩き、そこに無造作に置かれたエナメルバッグを持ち上げ、肩に掛けながら言った。
「秋月、部活始まっぞ」
「はい。すぐ行きます」
遼は慌てたようにそう答えた。
「おまえ、」剣持は立ち止まって振り返り遼の顔を見た。「技術はまだまだだけど目の真剣さと姿勢はなかなかのもんだ。磨けば強くなれると思うぞ」
彼はそう言うと、ドアを開けてあっさり部屋を出て行った。
「じゃ、じゃあ、僕これで失礼します。いろいろお話を聞いて下さってありがとうございました」
遼は立ち上がりぺこりと頭を下げた。その時遼は、ブラウスの一番上のボタンを外した利恵の首筋に光る汗を見て胸が熱くなるのを感じた。それはそのそばで輝く細い金のネックレスと共に強く彼の心に残ったのだった。