『第2章 その秘密の出来事は』-17
剛は今、目の前に座っている教師の名前には聞き覚えがあった。妻の利恵が何度か話して聞かせてくれたことがあったのだ。
「ところで、剣持先生って、」
目の前の湯飲みを口に持っていきかけた剣持の手が止まった。「はい?」
「うちの妻、利恵とはこっちの高校の教育実習で一緒だったとお聞きしましたが」
「利恵……さん? もしかして岡林利恵さんですか?」
「そうです」
「はい、一緒でしたよ。とても真面目でやる気があって、生徒からも人気がありました。そうですか、利恵さんが奥様なんですね。で、僕のことを話されたんですか? 彼女」
剛は頷いた。「はい、剣道に長けた男らしい人だった、って聞いてます。今もそんな感じですね、見たところ」
剣持は照れ笑いをして額の汗を拭った。
「珍しいお名前なので記憶してました」
「そうですか」
剛は数回瞬きをして、言葉を選びながら言った。
「そ、その時の様子を、あの、聞かせて頂きたいのですが」
「様子? 実習の時の?」
「はい。つまり……その時利恵が実習の時、学校で、何か気になるような行動をとっていなかったか、ということなんですが……」
剛は目の前のその逞しい体育教師をじっと観察した。
「(もしかしたら、この男が利恵と……)」
少しの間、怪訝な顔をしていた剣持は、努めて平静を装い、言葉を選びながら答えた。
「特に……変わったことはありませんでしたが……」
「特定の人物とずっと行動を共にしていた、とか……」
「彼女が持ったクラスの担任は初老の社会科教師でしたけど、どちらかと言うと職員室に籠もりっきりで、あまり彼女の相手をしていなかったような気がします。もう一人の理科の実習生は、化学の教員にずっといいように使われてましたけどね」
「そ、そうですか」
「彼女が担当していたクラスの学級委員長をしていた男子とはよく話をしていた記憶があります。彼は毎日の様に実習生の控え室にやって来ては利恵さんと話をしていましたから」
「学級委員長?」
「僕も当時顔を出していた剣道部の生徒で、秋月という瞳の澄んだちょっと痩せた生徒です。実は彼、今は警察官なんですが、うちの学校の剣道部に週二回、ゲストコーチでやってきてるんです」
「もしかして秋月遼ですか?」
「おや、ご存じなんですか?」
「はい。僕のいとこです。父の妹の子」
「へえ! そうだったんですね。こちらも奇遇ですね」
剣持は湯飲みから茶を一口すすった。
「剣持先生は、」剛は少し身を乗り出して訊いた。「実習期間中はどちらにお住まいに?」
剣持は肩をすくめた。
「僕の実家は高校の裏にありまして、当時は両親と兄と弟、それに祖母の家族と一緒に過ごしてました」
「土日は何をして過ごされてたんですか?」
「高校の剣道部に連日駆り出されてましたね」剣持は笑った。「当時の顧問にここぞとばかりに使われてました」
「そうですか……」
最も怪しいこの剣持という男と利恵との接点は、本人の話だけでは見えてこない、と剛は思った。
「すみません、妙なことをお訊きしてしまって」
「いえ」
剣持は、湯飲みを茶托に置き直すと、上着の襟を整えた。
「では、僕はこれで。いつも学校の活動にご協力ありがとうございます。新学期になったら校長名で正式な依頼の文書をお持ちしますので、どうぞよろしくお願いいたします」
姿勢良く立ち、そう言い終わると、剣持は丁寧に頭を下げ、付け加えた。
「奥様の利恵さんにもよろしくお伝え下さい」