『第2章 その秘密の出来事は』-14
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利恵が剛と結婚した年、二人の間に男の子が生まれた。遙生と名付けられたその子は現在鈴掛南中学校の二年生。剣道部に所属している。
「ケニーさん、こんにちは」
「おや、利恵先生、今日は一人でっか?」
「はい。お邪魔していいですか?」
「どうぞ。奥のテーブルに。いつものコーヒーでええですか?」
「恐れ入ります」
窓際のテーブルに腰を落ち着けた利恵は、枯葉の舞い始めた外の風景を見るともなく眺めていた。
「お待たせ」
ケネスがやってきて、カップを利恵の前に置いた。そして彼自身もテーブルの向かいに座り、自分のコーヒーカップを前に置いた。
「センセもこっちに来てもうどのくらい経つんや?」
「今年で13年ですね」
「そうか。そんなになるんやな」
「主人の仕事を探して頂いて、ほんと感謝してます」
「なんの。それくらい商工会の幹部としての当然の役割や。気にせんといて。そやけど、なんで横浜に住んでたあんさんたちがここに来ることになったんや? 剛くんの家は向こうやろ?」
利恵は静かに言った。
「元々私はこっちの出身なので。それに夫がどうしてもこの町に住みたいと。剛さんのお姉さんが結婚されてお義母さんとは一緒に住んでいらっしゃるからそちらはお任せして……」
「ああ、利恵先生の実家は県北やったな」
「剛さんの親戚の秋月家もこの町ですし……。それに、私の大学時代、教育実習を受けてもらった高校もあるし……」
途中で口をつぐんでうつむいた利恵を見て、ケネスは静かに言った。
「なんや話したいことがあんねやな? 利恵先生」
利恵は申し訳なさそうに上目遣いでケネスを見て、小さな声で言った。
「さすが、鋭いですね、ケニーさん」
「こないだ修平と遼くんとうちに来た時から気にはなっててん」
利恵は照れくさそうに頬を染めた。
「切ない顔やな。先生のそないな顔、あんまり見たことあれへん」
「秘密を自分だけの中に仕舞っておくのが苦しくなっちゃって」
「わいでええんか? その秘密を共有する人間」
「はい。お願いします」
利恵は静かに頭を下げた。
利恵の夫となることを約束した篠原剛は、中学時代から続けていた柔道でそこそこ名の知れた男だった。二人が交際を始めたのも大学二年生の時の合コンがきっかけだった。ところが、剛は大学四年生の秋、大会前の練習の最中に、投げ技を受けて受け身を失敗し、脊柱を傷めてしまった。命に別状はなかったが、下半身が麻痺してしまい、車椅子生活を余儀なくされたのだった。その時、すでに利恵と剛は結婚の約束を交わしていたが、怪我をした自分と結婚しても幸せにはなれない、と剛が身を引く決心をしたにも関わらず、利恵はそれを強く否定し、彼を支え続けることを決意した。
「愛してたんやな、先生」
「はい。そのことについては他に選択の余地はありませんでした」
「強い心の持ち主やな……」
「あの時、車椅子から身を乗り出すようにして私の身体を抱きしめて、彼は大きな身体でおいおい声を上げて泣きました。後にも先にも彼があそこまで感情的にになったのは初めてです」
「救われた、と思うたんやろな」
「そうですね。でも、かねがね私、結婚したら子供が欲しい、と口にしていたので、彼はそのことをとても気にしていました」
「そやけどその時、すでにおったんやろ? 遙生が、お腹ん中に」
利恵は静かに首を横に振って小さなため息をついた。
「実はあれは嘘なんです」
「嘘?」
「怪我する前も彼は頻繁に私を抱いてくれていましたが、彼が入院して数日後に生理が始まって……」
ケネスは怪訝な顔をした。
「ほたら、遙生は……」
しばらくの沈黙の後、利恵は決心したように顔を上げ、ケネスの目を見つめた。