富樫奈穂子(36)-2
長いエスカレーター中程で彼女が突然、駆け足気味に数段上がったとき、つられて俺も上がってしまったのは、魅惑のヒップが持つ引力のなせる技だろう。
無意識について行ったために、俺はとんでもない被害を受ける羽目になった。
──ぼふ。
一瞬、何が起こったのか戸惑った。
小規模な爆発音のようなものが聞こえたかと思うと、次には鼻を刺す異臭が取り巻いた。
ぶっ倒れそうになるのを、寸前で踏みとどまった俺は、上段で振り向く富樫奈穂子とまともに眼を合わせた。
羞恥の極み──。
奈穂子の表情はそうとしか形容が出来なかった。
俺は、今の出来事が何だったのか少し遅れてやっと理解した。
富樫奈穂子は屁をこいたのだ。
下段に立つ俺は、尻の高さとほぼ同じポジションにあった顔へ、まともにそれを受けた訳である。
美人のくせにとんでもない破壊力のガスを放つものだ。
顔色が変わっているのが自分でも分かった。
気を失わなかったのは、後から思い出しても凄いと思う。
エスカレーターを上がりきり、そそくさと逃げようとする奈穂子の手を掴んで俺は、
「富樫奈穂子さん」
はっきりと名を呼んだ。
今度は奈穂子の顔色が変わる番だった。
「謝りの言葉もなく言ってしまおうなんて思ってませんよね。あなた、割と有名人なのに」
お疲れモードなのが逆に作用してか、俺はかなり邪悪な心情になっていた。
屁をかぶった瞬間は激萎えしたイチモツが、再び痛いほど勃起していた。
──この屁こき美人、コマしてやる。
確たる意志が燃え盛り、俺は人もほとんど通らぬ駅構内で奈穂子を脅迫した。
「人気上昇中の富樫奈穂子さんが、人に屁をぶっかけて逃げようとした──これ、知れ渡ってもいいんですか? 俺、ネットニュースとか書いてるんで世間にバラまきますよ?」
ぱっちりした眼をさらに見開き、怯えた顔へさらにひと押し。
「つーか、こんな早朝にどこへお出かけですか。いや、朝帰りっスかね。人に言えないお楽しみの夜を過ごしての……」
下世話な当てずっぽうだったが、恐るべきかな俺の勘。
見事にそれは図星を突いていたようで、奈穂子はいよいよ血色を失い、ただでさえ白い顔を蒼くしていた。