第一話-8
「せーの、よっ!」
寿明は両手で力一杯、レンチを回すが、ナットは固着したようにびくともしない。二度、三度と力を加えるが、ナットは身動き一つしなかった。
(まいったな……。)
上がる息の中で、寿明はしばし手を止め、何か別の方法はないかと考えると、今度はトランクからハンマーを持ち出した。
ナットにレンチを固定し、レンチの端をハンマーで思い切り叩いた。甲高い金属音を発し、ナットが微かに緩んだ。
「よ、よし!外れたぞ。」
空港のオレンジ色の照明と、駐車場の水銀灯の明かりが僅かに届くような薄暗い場所で、たった一人の歓声が挙がった。
「後少しだ。後少しで……。帰れるぞ!」
無人の駐車場で唯一人、寿明が希望を膨らませて作業に勤しむ中、時刻は午後十一時に迫っていた。
「お父さん……。遅いなあ。」
史乃は、一つため息を吐きながら、時計に目をやった。
時刻は午後十一時──。リビングでテレビを眺めながら待つこと三時間。ソファーに座り、膝を抱えて頬杖を付く。視線の先はテレビを捉えているが、寿明の帰宅に気を取られて心ここに非ずの様は、この世界に存在する全ての誘惑を拒んでいる。そんな姿に見えた。
「せっかく、こんな格好までしたのに。」
史乃は立ち上がり、姿見の前に立った。
濃紺のフォーマル・ウェア──。それは一年前、史乃がこの家に初めて訪れた際、着ていた服だ。
彼女が祖父母の家を出て寿明と暮らす前日、買い与えてくれた物だった。
体躯が大きくなって着れるか不安だったが、多少、窮屈ながらも何とか入った。
記念日らしく飾ったのは史乃だけではない。ダイニングには、テーブル中央に花瓶で生けられた二十本余りのアネモネの花が、部屋に鮮やかな彩りを添えていた。
毒々しいほどに赤い花びらは、食卓を華やさを与える。生前、母、綾乃は春になると、二人が暮らしていた狭いアパートの玄関口に、よく一輪挿しで飾っていたのを、史乃は鮮明に覚えていた。
一月の三回忌には飾ってやれなかったが、この機会にと、史乃が取り揃えたものである。
唯、花屋でアネモネの花言葉を聞かされた時、母の綾乃は知っていたのだろうと思った。
“別離や儚い希望と”、総じて負のイメージが強いように思う。が、綾乃が好きだったという赤に限れば、“根気や辛抱”と、史乃が持つ母のイメージに近い。
(でも、二人の歩んだ道にはぴったりだわ。)
一度は、一緒になる事で夢を分かち合えた二人が、その夢を諦め切れずに別離れてしまったから、この毒々しい赤を好んだのかも知れない。
「──お母さんがお父さんを好きになった理由……。何となく判るわ。」
自らの知識と知性だけで、他に類を見ないものを作り上げてゆく。その夢に懸ける姿を目の当たりに出来るのは、普通のサラリーマンでは難しいことである。
夢追う姿に何の見返りも求めず、時には、金銭的や精神的、そして肉体的にも支えてきた筈で、無償の愛を注ぐことに無情の喜びを感じていたことだろう。
(私も、そんな風になれたら……。)