貧困娼年の放蕩-1
青い空だ。
目を覚ました翠は拡がる空を見ている幻に浸った。
でも、それは天井に張られたビニールシート。いや、天井と言うよりは「屋根」。
背中には何枚かの段ボール箱を折りたたんだ寝床が、湿気を含んだままゴツゴツと背中に当たる。
樹木の幹や名もない雑草、廃棄弁当のなれの果て、いくつかのビニール袋。
翠は狭く息苦しかったとはいえ、畳のある部屋を思い出す。壁ばかり見つめていたあの日を。
いつもなら酔っ払っているか男とどこかのモーテルにいるはずの母さんが、いつになく慌ただしく部屋に駆け込んできたのは夜中の二時だった。
そして草臥れたボストンバッグに衣装や下着やら詰め込み、翠に目をとめて言った。
「行くよ。潮時だからねっ」
着の身着のまま電車に乗り、乗り換えてまた電車に乗って。
車体の揺れが心地よく、翠は眠ってしまったが、目覚めたときには遠くに海が見渡せた。
いいなあ、海。
学校の海への旅行は旅費がないのでむろん欠席。
だから翠は海を見るのはこれが初めてだった。
その茫洋とした果てしのなさに、その碧さに焦がれてしまう。
あの向こう側に、飢えなくてもいい、果物がたわわに実り誰が食べても怒られない国がある。
いつの時間に歩いていても、海で身体を洗っても、人目を気にせずにいられる場所がある。
翠はその夢のような国を想像し、くすりと笑った。
この街は大きくて、前に棲んでいた街よりもなんだか雑然としている。
くすんだビジネス街やお洒落なファーストフード店などのかわりに、いかがわしげな店を抱え込んだ雑居ビル、露天で肉や団子を焼く店が建ち並んでいる。
道行く人々もスーツやデニムではなく、男はジャージやジャンパー、おばさんはまるで極楽鳥みたいに派手な服を身につけ、誰も彼もが大声で話している。
そして翠にとって残酷なことには、そこいら中に食べ物の匂いが充満している。翠は唾を飲み込むのに忙しかった。
そんな街中にぽっかりと、ビルの隙間に出来た闇のような三角形の公園がある。
母さんはそこにねぐららしき物を作り、そこを拠点にして街へと出て行った。
翠はその「家」を整えながら、一日おきに母さんが置いて行く食べ物を待つ。
だいたい賞味期限の切れたパンや弁当、食べ残しの焼き鳥や串揚げだった。
学校がなくなった事が悲しいのか嬉しいのかわからない。
給食がなくなったのは一番悲しいが、クラスのつまはじきにされないのは嬉しい。
誰もが翠に手を触れるのをいやがり、班分けする時の剣呑な雰囲気は耐え難かった。
考えて見ると、あのヤクザ屋さんたちと手が切れた事になるけれど、あれはあれで翠が生きて行くために大切だったんだと痛切に思う。
辛いこともあったけど、幸せな瞬間だってあったから。
お金は「当座のこづかい」として渡された。「ちゃんとした稼ぎはきちんと貯金しておくから」と言われて。
あのお金は、どうなるのだろう?
でも、「あきらめる」事は翠にとって日常だった。