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「木田さん、病院行った方がいいよ?」
休憩中、木田に声をかけて来たのはバイト仲間の陽菜だった。バイト仲間と言っても経験的には木田より先輩で、それでいて木田よりも若い、現役大学生だ。立場的にも他のバイトと違うため、陽菜も木田の扱いをどうして良いか分からず、「さん」付けするが敬語は使わないという、微妙な立ち位置になっているのだ。
「病院……」
「そ、病院。今住んでるところには戻っちゃ駄目だよ、退院した後はね。」
陽菜は日頃から「見える」能力があると公言しており、一部のバイト仲間はそんな風変わりな陽菜との会話を面白がり、陽菜に絡んでいた。元々そんなものを信じていなかった木田は、陽菜に対して苦手意識を持っており、なるべく関わらないようにしていた。だが体調を心配されただけでなく、誰にも話したことのない住居の事まで言い当てられたからには、陽菜の能力を信じざるを得なかった。
「見えるって本当だったんだ」
今の木田に驚きはなかった。むしろ気付いてくれる人がいたことに安堵していた。
「何か凄いのが絡み付いてる。何て言うかこう…」
「貪欲な感じの?」
「そう!『手』がね、木田さんの体中這い回ってる。それにもう片方の『手』がね…握りしめてるの…そこ」
言葉にするのが憚られたのか、陽菜は木田の股間を指差した。ああ…家だけじゃないのか。完全に憑かれてしまっていることに木田は戦慄した。陽菜は日頃は人前でもずけずけと発言するタイプだ。その性格も木田にとっては苦手な要因であるのだが。しかし、その陽菜が他のバイトの目を避けるように休憩時間を狙って接触して来たということが、事態の深刻さを物語っていた。
「バイトリーダーとしての権限を持って木田さんに命令します。今日は早退して今すぐ病院に行くこと。あと、入院の準備とかあるだろうから、バイト終わったら行くから。連絡してね」
「あの…俺医療にも詳しくないんだけどさ、その…入院前提なの?」
事態が飲み込めていない木田に呆れ、陽菜は軽い溜め息をついた。
「このままじゃ木田さん死ぬから。この短期間で激ヤセしてるのに、みんなが気付かない事がおかしいよね?木田さんね、このまま今の家に居座ったら1週間持たないから」
木田は急いで早退する準備をした。
昼も食べずに地元の総合病院に着いたのは、午後2時を過ぎた頃だった。確かに、食事をとっていないとは言え、バイト先から徒歩20分でこんなにフラフラするのは異常だ。とにかく病院に来たのだ。点滴でもしてもらったら元気になるだろう。
人気の少ない受け付けに保険証を提出した。
「申し訳ございません、あいにく専門外来の受付は13時までとなっておりまして…」
受付の事務員が断ろうと木田を見た途端、表情が一変したのを木田は見逃さなかった。そんなに悪いのか…。
「えー…少々お待ちください」
事務員が慌てた様子で奥へ走って行くと、程なくして若い看護師が車椅子を持って現れた。
木田の名前と症状を聞きながら手首に指を当て、脈を確認する。とてもスムーズな流れだ、手際がいい。感心していると、木田はそのまま車椅子に乗せられ、救急外来へと連れていかれた。
何の薬が入っているのか分からない点滴を打たれ、有無を言わさず検査が行われた。血液検査、レントゲン、超音波検査、CT、そして、複数名の医師により繰り返し行われる長い問診。全てが終わったのは5時を過ぎた頃だった。
「正直私も驚いてるんです。このデータ、老衰で死ぬ手前の人にみられる値ですよ。最初にこの数値を見たとき、100歳の寝たきりの患者さんかと疑ったくらいです」
名札に内科部長と書かれている立派な医師が驚くのだから、よほどの事なんだろう。
「まぁ確かに最近痩せはしましたけど…ちゃんと食べてたんですよ?それに体は痩せ細ってないと思うし…」
「手足が細く感じないのは、むくんでるからですよ。正確には浮腫というんですけどね…血液の中にもタンパク質が含まれてて、特にこのアルブミンっていう項目が………これが2しかないんです。つまり……」
要するに、タンパク質が体から吸い取られたように減り、貧血も進行しているということだった。結果、木田の意向も聞かれないまま入院となった。
「輸血だって」
「そっか…」
木田から連絡を受けた陽菜は病室で諸々の手続きを済ませてくれた。ここで初めて木田はこれまでの出来事を陽菜に話した。
「男の人が入っていい場所じゃないね」
「訳ありって、本当にあるんだ。知らなかったよ」
「信じないのが悪いわけじゃないし、安ければ飛び付くよね。問題はそこの不動産がどうしてそんな危険な物件を扱ってるのかっていうことよね」
単独行動になるけど、不動産屋と直接話す必要がある。陽菜は、木田が契約した会社を訪問しようと思った。
「でも、その前に…木田さん持ってて、これあげるから」
「お札?と…粉?」
「塩だよ。肌身離さず持っててね、特に夜中ね」
面会時間が終わり、帰っていく陽菜に木田は十分お礼を言った。
その夜、木田は夢を見た。真っ赤なマニキュアをした『手』が、怒りに狂ったかのように木田の体中を掻きむしった。しかし、木田の体には傷ひとつつかなかった。木田にはそれが夢だと分かっていたし、陽菜から貰ったものが守ってくれているという安心感があった。
最近は睡眠時間を十分とっても、鉛のような重たさとともに目を覚ましていたが、目覚めとともに爽快感を感じたのは数ヵ月ぶりだ。陽菜のアイテムのおかげ「ひっ!」
お札の1枚が、端が燃やされたように欠け、血痕と思われる指紋が付着していた。