僕は14角形-48
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郁夫が詩音を連れて行った店は、白木で建てられた瀟洒なティー・ハウスだった。
店内の調度も物々しい物はひとつもなく、それぞれの椅子に膝掛けが掛けられている。ドライフラワーと(郁夫の話では「ワイルドフラワー」と呼ぶらしい)金属や木で出来た不可思議な玩具やパズルがそれとなく転がっていて、暇を潰すのには良さそうだ。
店主は立ち枯れたような老人で、繊細な磁器を神経質そうに磨いている手を休めて、実に緩慢に僕らのテーブルにやってくる。メニューを置かれる前に、郁夫は「トワイニングのアールグレイを」と答えてしまう。僕はちみっと腹を立てて言った。
「アッシュビイのピーチを冷やして」
老人は何か考えてから、「お客様のご要望に応えるのはちょっと。あれは鮮度が重要なので」と頭を下げた。
「では、ポーションのウヴァ。セカンドリーフでいいや」
「かしこまりました」
「詩音は何か食べないの?ここはレア・チーズケーキが有名だけど」
「おまかせ。っていうのが正解だけど、多分洋なしのパイだと思う」
店主は恐縮したように「ちょうど良い物が届いたばかりでございます」と頭を下げた。
郁夫は頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。
「洋なしは夏の終わりの食べ物だけど、地球は丸いんでね。南半球で甘くするために貯蔵されたのがちょうど今頃一番美味しくなる」
「あきれたね。昨日と言いその前といい、君に振り回されっぱなしだ。正直はらわたが煮えかえるね。たまには僕に花を持たせてはくれないのかな」
「同じアールグレイでもトワイニングとはね。お里が知れるよ。そもそもアールグレイはエフェクト・ティーだ。スコッチで言えばブレンデッドと同じさ。その時点で郁夫は負けて居るんだよ」
郁夫は何とも言えない歪んだ顔をしてため息をつく。
「郁夫は何か食べないの?」僕はアイロニーたっぷりの微笑みを浮かべる。
「いらねえよ!って、もう食欲なんかカケラもなくなった」
「無知は論拠ではないよ、郁夫」
「なんですかそれは?」
「知らないの? プラトンの言葉さ。つまり、『知らないことは理由にならない』って事だよ。あ、そう言えば『プラトン』ってのは「肩幅が大きい」って意味で、単なるあだ名だよ」
郁夫は泣き笑いのような顔をして言った。
「ちょっと落ち込んでもいい?」
僕が絶品の洋なしのパイを食べるとき、店主にシナモンを多めにしてだの、ポーションのウヴァのポットの入れ方といい、その保温を助けるアイテムに讃辞を送ると、店主はすっかり機嫌が良くなったみたいだった。そのかわり郁夫が完全に沈没している。
「ごちそうさま。美味しかったよ。郁夫は満足した?」
「今、黄泉の世界を彷徨っています」
「ふうん。なかなか洒落た暗喩だね。それより、僕に何か言うべきじゃなかったの?それとも僕の空耳だったかな。確か、『謝る』とかなんとか」
郁夫はついにテーブルに伏せた。
「ごめんなさい」
僕は聞こえないふりをする。
「誰が、何に対して何が『ごめんなさい』なのかな?聞きたいね、それは是非」
ついに郁夫が顔を上げた。完全に目が座っている。
「正直、何も知らないんだ。僕は兄貴のロボットだもの」
「ロボットって楽しい?」僕は郁夫の目を真正面から見つめて、足を組んで(ちょっと危なかった)肩肘で顎を支えて囁いた。
「楽しいわけがないだろう」郁夫から明らかに視認できるほどの負のオーラが立ち上る。
「物心ついたときから僕は兄貴の奴隷さ。いや、犬か」郁夫が自分を嘲笑する。
「今日が、生まれて初めての兄貴への反抗なんだ」
僕は膝掛けを肩に回した。その挙動に、いつの間にか増えていた客が小さなうめき声を上げる。僕はサービスとして、回りの客に「ごめんなさいね」みたいな微笑みをばらまいた。左耳のピアスが燦然と輝く。うなじが白銀の鞭のように、指は水晶の細工のように。
店を出たときには、もうすっかり夜の帳が降りていた。
僕は郁夫を逆エスコートして道に降りた。
「じゃあね、郁夫。一応謝った事にしてあげる。郁夫が犬でも猫でも」
無表情の郁夫をこのまま帰したくはない。
「郁夫、君は素敵だよ。キスも上手かったし」僕は小悪魔のように笑う。
離れて行く僕に郁夫は突然叫んだ。
「詩音、僕は君が居ないと生きて行けない。だから……愛してる…!」
え?