僕は14角形-40
30
「腕を貸してよ、郁夫」
「あ、ああ」惚けたような郁夫はどこか滑稽だ。僕は彼の肘に腕を絡みつける。
「今日はあなたがホストなんだし、女性をエスコートしてくれないの?」
郁夫はどこか壊れたマリオネットみたいにバランスを崩しつつも、そこはさすがに体操の選手。きりっと立ち上がり、左手に力を込めて拳を握った。
歩き出した僕たち二人が動き出すと、周囲のギャラリーから静かなどよめきが聞こえた。この服は動き出すとさらに華麗に羽ばたく。
「郁夫は経験多いんでしょ? 女の子の扱いは忘れてないよね」
「け、経験なんか多くないよ。どちらかというと硬派だし」
「経験の無い人がコンビニで初対面の女子をナンパなんて出来るはずないじゃない」
「そういや、そうか」納得するな馬鹿野郎!
郁夫は困ったような苦笑いをする。
「ってかさ、基本軽いんだよね。『詩音ちゅあ〜ん』って眼をハートにするタイプ」
「黒足のサンジそのままってわけ」
「ま、そういう訳。今のサンジならこのビルのてっぺんまで駆け上って看板二つ三つ蹴飛ばして飛びつきたい気分」やってみろよ、おい。
「……それにしても」郁夫は照れくさそうに頭をかいた。
「……僕はこの世の終わりがとうとうやってきて、天使が僕を天国への階段に連れに来たのかと思ったよ。冗談はなしで」郁夫は赤面し、並んで歩く僕をちらっと見るとまた赤面して、挙げ句の果てに右手で顔を覆ってのけ反って歩きながら呟く。
「恍惚と不安、ふたつ我にあり」
「お褒めにあずかり、光栄です」僕は笑う。多分天使のように。
しばらくして郁夫はようやく落ち着いて来たようで、詩音を見下ろした。
「そのピアス、すっごく似合うけど、ダイアモンド?」
「キュービックジルコニア。偽物だよ」僕は嘘をついた。
MOTER'S RIDEは以外に近かったが、裏道の目立たないビルだった。少なくとも商業的なシアターとはどう考えても事なる風情だ。
自動ドアを入ってもホールはなく、踊り場程度の空間にいくつかソファが並べられ、サングラスや髭を生やしたいかにもな業界系の人間がぼそぼそ何か夢中で話をしている。
カウンターに居た黒フチの野暮ったい眼鏡をかけていた女性は雑誌に目を落としていたが、僕らを見るなり驚愕の表情を浮かべて立ち上がった。郁夫は黙って胸から出した二枚のチケットを手渡し、ノートに「伊集院郁夫」「天羽詩音」とボールペンで丁重に書き記す。いまどき文字が綺麗に書ける若い男性というのは貴重だ。
「篠田のおじき、もう来てる?」
「あ、はああい、先ほどミキサールームの方にお出かけになりましたが」
「じゃ、会ったら伊集院の悪ガキが来てやったって言っておいて」
女性は完全に目線が詩音の方を向いたまま、「かしこまりました」と呟く。
「ふうん。『事情通』ってやつかね、あなたは」
話し込んでいた業界人の一人が振り向き、眉を釣り上げると、隣の男にパンチを食らわした。残りの連中も首を伸ばしたり、腰を浮かして詩音を見る。
「誰だっけ、あれ。」「AKBじゃねえよな」「どこのユニット?」「ソロじゃねえの」
やかましいコーラスが終わらないうちに、僕らは防音ドアを押し開けた。
そのホールには小さなビルには似つかわしくないほど大きなスクリーンがあった。
それと、シアターにはありえない露出したスピーカーや照明器具。高い部分には多数の窓が緑や赤のダイオードを灯している。天井からつり下げ垂れたゴンドラには高価そうな巨大なカメラが設置されていた。
「要するにマスコミ発表用のシアターなの?」
「うん。まあ、そういうことになるのかな。一般人は入れないよ」
「まさか郁夫もギョーカイ関係者の端くれ?」
郁夫は大仰に手を振った。
「冗談。ただ、ヤクザな叔父がいるだけさ。監督なんだけど、今回は原作者が監督しているから、主に音響関係をやっているらしいけどね」
ぼくらは座席中央のやや後に席を取ろうとする。腰を下ろす前にちょっと悪戯心が起きて、僕は髪を掻き上げながらぐるりと周囲を見渡した。突き刺さる視線が気持ちいい。二階の窓の硝子に貼り付いたスタッフとおぼしきメカな人間が阿保面を晒している。
僕は郁夫の隣に座ると、ちょっとベロを出した。
「君もあんまり行儀良くないね」
「あれ? だって、まわりを見ただけだよ? どんなところかなって」
詩音は右側に座った郁夫に悪戯っぽく笑った。
「もっと行儀悪くだって出来るんだよ?」
そう言うと詩音は身体を郁夫に傾けて寄りかかった。郁夫のぬくもりが伝わって来る。
「ね、心臓に悪いから、いまのところ僕は」混乱した郁夫も面白い。
女の子って、いつもこんな事しているんだよなあ、と思うと恐ろしくなる。少なくとも美人なら例外なく出来るんだろう。ちょっぴり姫乃のふくよかな胸が羨ましい。
ちょっと目を閉じて、郁夫の鼓動を聞いてみようと思う。
ソナー・スイープ最大。パッシブソナー、曳航ソナー出力最大。