悦子-4
テレビも面白い番組が無いし、山辺の添え書きを見てやるかと思い立ったのは押入に封筒を入れてから1週間程経っていた。
『美形の悦子女史が返事を貰えないと俺に泣きついてきたんだけど、どうしてくれようか? 先生はお忙しくて俗っぽい質問にいちいち回答している暇などありはせんとでも言っておくかね?』
と書いてあった。山辺の前で悦子女史という女は栄一のことを先生呼ばわりしたのだろう。山辺はそれを皮肉っているのである。
今度寄稿する時には一筆書き添えてやろうと思った。いずれにしても悦子女史という女と直接に手紙を交わそうなどと言う気にはならない。小難しい文学論争などしかけられたりしたら堪らない。昔は人に聞かれたら自慢して答えられるような立派なものを読んだこともあるのだが、社会人になってからは頭が柔らかくなるような物しか読んだことなど無いのである。近頃ではそれすらも減ってきて、週刊誌を見ても写真を眺めることの方が多いくらいで、とんと活字からは離れてしまった。それも風景写真だの何だの芸術的な写真ならまだ良いが、近頃の栄一の関心を惹いているのは専ら女の裸の写真なのである。文学を好む女なんて願い下げだ。私に何か1首詠んでくれなどと言われたりしたら悲劇である。大学を出て以来短歌など1つも作っていないし、関心も全く失ってしまった。悦子女史の処理は山辺に任せようと思った。山辺なら悪いようにはしないだろう。
ある日いつもの通り役所の仕事を終えて、近所の定食屋で食事をすましてから家に戻ると家の前に女が立っていた。階段の踊り場毎に左右に入り口があるという並びのマンションだから、向かい側の家に用があって来た人だろうと思った。栄一のところになどおよそ来る人がいないからである。顔はまだ高校生のようにも見えるが、服装からしてもっと年が行っているのだろう。栄一がドアに鍵を差し込むと話しかけてきた。
「あの・・・」
「はい?」
「ひょっとして江田先生ではないでしょうか?」
「は? はあ、江田ですけど」
「やっぱり。私以前不躾なお手紙差し上げました山本悦子です」
「あっ」
山辺はなかなかの美形だぜと書いていたが、美形というよりも可愛らしいという感じの女の子だった。この時間だし、ワンピースなど着ているからまさか高校生ということは無いだろうが、高校生ですと言われても全く不思議に思わない。髪は長くも短くもなくていわゆるおかっぱスタイルである。それが綺麗に切りそろえてあるからまるで人形のような顔に見えた。顔の造作も熟練の人形作家が作り上げたような完璧なものに見えた。それにしてもこんな若い子があんな手紙を書いたりしたんだろうか。
「えー、困ったな。汚い所だけど取りあえず上がって下さい」
「宜しいんでしょうか?」
「まあ、此処まで来てしまった以上仕方ない」
「申し訳有りません。東京に出てくる用事がありましたものですから、ほんのちょっとお住まいを拝見して、それだけで帰るつもりだったんです」
「そうですか」
「でも此処に先生が住まわれていらっしゃるんだと思ったら今まで拝見させて頂いた沢山のお歌が次々に頭に浮かんできてしまって、知らない内に時間が経ってしまったんです。別に先生のお帰りを待っていたという訳ではなかったつもりなんですが、無意識に待っていたんでしょうか?」
「さあ、君の無意識の意識が僕に分かる筈がない。ともかくまあ、上がって下さい」
「それじゃあ失礼させて頂きます」
「お茶を・・・と言ってもペットボトル入りのウーロン茶しか無いんですが、それで良ければ」
「結構です」
「はあ」
要らないと言うのかそれで良いと言うのか分からなかったので、取りあえずコップに注いでキッチン・テーブルに置いた。キッチンと言ったってテーブルの周囲に漸く人が歩けるくらいの余裕しかない程の広さである。奥の部屋は広いけれどもベッドがあるし、脱ぎ散らかした服や下着がベッドの上にあるから、そっちへ案内する訳にはいかない。悦子は背筋を伸ばして座り、両手をきちんと膝に置いていた。まるで置物のように見える。