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クッキーの行方
【その他 官能小説】

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クッキーの行方-8

(8)

(どうしているだろう……)
旅先の束の間の出来事……。
(それだけのことだ……)
思いながら、引き摺っていた。いい歳をして、ときめいた温もりを忘れられなかった。
(もう、2度とない……)
女遊びはどこでもできる。だが、ときめきを伴う遊びなどない。
(まゆみは、特別だった……)
だから心に留まっていた。……


 日毎に春めいてきて、花の便りが届き始めたある日、西村は思いついた。
(そうだ……ホワイトデー……)
まゆみに会えるかもしれない。口実を見つけて浮き立ったのである。
(もう1度だけ)
会いたい。会えるだけでいい。
(バレンタインデーのお返し……)
それは正当な思い付きだと思った・

 思いが馳せると気持ちが逸ってどうにもならなくなった。
「急な出張なんだ」
妻は怪訝な顔を見せた。
「土日に?」
「商品発送にミスがあって」
「また仙台なの?」
「俺が行った時のトラブルなんだ。しょうがないだろう」
最後は語気が強くなっていた。

 ホテルを予約した後で、まゆみへの連絡を考えた。前もって都合を訊くべきか迷ったのである。

 あの日、駅で別れる時、拒む彼女の手に無理やり金を握らせた。
「困ります」
「いいじゃないか。気持ちだから。来てくれて嬉しかったんだ」
そうして、
「さようなら……」
「お元気で……」
丁寧に頭を下げたまゆみの顔に笑顔はなかった。

(あの時の顔は、再会のない別れだった……)
そう感じ取ったし、西村も再び会うことは考えていなかった。それなのに、不意に立ち昇った想いを制御出来なくなっていた。

 前日に電話しようと決めた。
(会えなければ仕方がない……)
それだけのことだ。……たまたま出張に来たんだ。そう言えばいい。これで最後だ……。

 ところが、連絡を取ってみると予想外の事態になった。
「西村さん?」
明るい口調に心が和んだ。
「実は……」
明日仙台に行くと伝えると、思いがけない言葉が返ってきた。

「そうですか。私、東京にいるんです。思い切って出て来ちゃった」
出張の画策が虚しく消えていった。
(馬鹿なことをした……)
とっさに出た言葉は、
「今夜、会えないか?渡したいものがあるんだ」
つい勢い込んだ言い方になっていた。

 まゆみの返事が滞った。
「なんでしょう?」
「たいしたものじゃないんだ。バレンタインのお返しに、クッキーを……」
「はい……」
明らかに戸惑っている様子が伝わってきた。

「いや、わざわざ会って渡すのも気が引けるんだけど……」
まゆみは黙っている。
「どうしてもお礼がしたくて……」
「すいません……」
いったん言葉を切り、
「予定があって……」
部屋が見つかるまで友人の家に厄介になっているという。
「世話になってるし……」
しなければならないことがあると言った。

「仕事は見つかりそう?」
「少しずつ活動中です。焦らずゆっくり考えます」
そして、言った。
「私、区切りをつけてきたんです。あの仕事も、それと、駅でお別れした時も……。最後のお客さんと思って……。チョコレートは仕事の1つと思ってください。お心遣いは嬉しいですけど……」

 言葉は丁寧だったが、芯の通った強さが伝わってきた。
西村は自分の狡猾さと意地汚さを恥じた。『いい人』を装っていただけではないか。……目的はまゆみなのだ。彼女の肉体ではないか。愚かなことに偽りの出張まで作り上げ、家族まで騙している。
(50年も生きてきて……)
可笑しいほど情けない自分を知った。

「そうだ。区切りだったよね」
「はい」
「いい仕事が見つかるように祈ってる」
「ありがとうございます」
「元気で……」
「西村さんも、お元気で」
「それじゃ……」
先に切ったのは彼のほうだった。切ってから、
「ありがとう……」
小さく呟いた。

 ホワイトデーを思い出すなど久しくなかった。毎年、妻と娘がリボンのついたチョコレートを渡してくれるが、甘いものが苦手な彼はひと欠け口にするだけである。ひと月後にはそれすら忘れていて、お返しの催促をされたこともない。今年も出張から帰るとテーブルの上に置いてあった。……
(クッキーでも買っていくか……)
ふと考えると、沈んだ気持ちがほんの少し、安らいだ気がした。
 


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