魚精-5
(5)
沢には水が流れていた。涸れた形跡などどこにもない。
(あるじゃないか)
先日と同じ、清らかな水が流れている。濁ってもいない。
(淵はある……)
魚はいる。
たしかに傾斜と水量を考えると、たとえ本流の水かさが増したとしても魚が遡上するのは無理である。それでも魚はいた。しかも見たことのないビッグサイズのイワナ。そしてヤマメ。可能性としては放流である。誰かが放したにちがいない。ともかく、
(見たんだ。ヤマメを釣ったんだ)
安田は樹林の中を登っていった。
森閑とした木々が開け、苔むした岩が現れた。せせらぎと鳥のさえずりだけが聴こえている。
はたして、淵は神秘の佇まいを現した。朝の木漏れ日を受け、水底の深い青色が滲んだように見える。
(やっぱり、あった……)
ここに水があることを誰も知らない。魚がひっそりひそんでいることも……。
安田は離れた場所で竿を仕立て、忍ぶようにゆっくり歩を進めた。
(音を立ててはならない……)
細心の注意を払って仕掛けを振り込んだ。
岩の陰、伸びた木の枝の下、端から中心部まで探る。タナも変えてみる。しばらくすると時間が止まったような感覚に陥った。
2時間経ってもアタリはまったくなかった。
(あの大物だけではない。ヤマメもいるはずだ)
それが小魚すら食いつきがない。エサもいくつか変え、毛ばりも試したが何の反応もなかった。
3時間を超えた頃、さすがに集中力がなくなった。
腰を下ろしてタバコを吸う。
(こういう時もある……)
水温の低下や気温の変化などで釣りにならなかったことはある。しかし、この日は意気込みがちがう。
(ヤマメの少女……)
ずっと頭を離れてはいない。イワナがだめでもヤマメを……。
その時、淵に渦巻きが起こり、水面を叩く音が響いた。
「あ!」
背びれが浮かび、魚体の背が見えた。
(イワナだ!あのイワナだ!)
気持ちを抑えつつ竿を振った。が、昂奮で膝が震えていた。
信じられない現象が起きていた。イワナが水面近くを泳ぎ回っているのだ。まるでエサを求める池の鯉みたいに。
安田が水辺に立って覗いても動きは治まらない。狂ったように泳いでいる。
(でかい!)
驚きを新たにしながら、
(イワナはこんな動きをしない)
理解不能な異常事態だと思った。
安田が道具箱から探したのは掛け針の切れ端である。昨年アユの『コロガシ』をした時に切れたものを捨て忘れていたのである。釣りというより引っ掛ける乱暴な方法である。
(引っ掛けてやる)
4、5本針がついた仕掛けに錘をつけて投げた。波立つ中心に投げては引き、投げては引いた。
(くそ)
仕掛けを叩きつけるように繰り返した。釣りではなかった。
(おかしい……)
これだけ乱暴に荒らしているのに大きな魚体は水面近くを悠々と泳ぎ回っている。イワナは警戒心の強い魚である。物音はもちろん、人影を察知しただけで物陰に姿を消してしまうものだ。
(それが、なぜ?)
その時である。
(掛かった!)
まるで流木にでもかかったように糸が張った直後、グンと手応えが伝わった。
(すごい!)
一気に潜っていく。竿を立てるが、その『引き』は魚とは思えない強さで、両手で竿尻を持っても1歩2歩と引き摺られる。
イワナとの攻防……ではない。一方的に引っ張られて、強さ、重量感から無理だと感じた。そして一段と引きが強まって糸が切れた。同時に竿も折れた。
安田はしばらく茫然としていた。手に残った感触は過去の釣り体験で比較するものはなかった。
どこに引っ掛かったのかわからない。淵の水面は何事もなかったように静まっている。
折れた竿は手作りの和竿で20万もしたものだ。予備の竿はあるが、釣りをする気持ちは失せていた。高価な竿を失ったからではない。イワナのあまりの巨大さに、得体の知れない圧力を感じて闘争心が押しつぶされた感じだった。
気落ちした心の顔がふと持ち上がったのは帰り道のことである。
(早めに宿に行こう)
明日どうするか、考えよう。せっかく休みをとって遠くまで来たんだ。簡単には諦められなかった。
(ヤマメの少女……)
『彼女』に会うためにやってきた。少女を抱きたくて……。
(あの家はどうなってるんだろう……)
ふと立ち止まって思ったのである。
少女と一夜を過ごして純潔を破った家。……少女の息遣いを思い出して、安田は家に続く山道を探した。
今日はヤマメは釣れなかった。だから、『恩返し』はないということになる。だが、
(少女がいるかもしれない……)
俺のことを憶えているはずだ。忘れるはずはない。
それらしい道を見つけて登りながら、
(待てよ……)
イワナを掛けた。大物イワナをまちがいなく掛けた。バレてしまったが、あれは逃がしたことにはならないか?
(そうだ、逃がしたようなものだ)
思いつくと都合のいい筋書きに繋がっていった。
(あれだけの大物だ。こんどは熟女が現れるかもしれない。恩返しに……)
その時、雨が降り始めた。空はいつの間にか頃い雲に覆われている。
(あの時と同じだ……)
見上げているうちにやがて篠突くような雨脚になった。
(魚の精が呼んでいるのかもしれない)
安田は力が湧いたように足を速めた。
家は在った。
(同じ家だ)
ずぶぬれの状態で玄関のドアノブを捻った。カギは掛かっていない。その時、閃光と凄まじい雷鳴が同時に鳴り響き、安田は意識を失った。
ほんの一コマのように自分が誰かに運ばれていると感じる記憶が残っていた。
どれくらい経ってのことか、目を覚ましたのはベッドの上だった。