素直じゃないね-1
部屋を片付ける間がなくて焦ったんじゃないかって?残念でした。清志が初めて来てくれた日から、ずっと綺麗なままで保ってた。どんなに辛いことがあっても。どんなに悲しいことがあっても。
気持ちのどこかで信じてたのかな、彼はまたここに来てくれる、って。そしてそれは実現した。クリスマスの夜に。やっぱり奇跡の夜なのかもしれない。
「あー!やっぱり美味しい!最高だよ、諒子の淹れてくれるお茶は。」
「当然よ。美濃村家を舐めんなよ!」
「ね、音楽掛けてよ。」
「うん。」
私は立ち上がってオーディオ装置の所に行った。
「ところでさあ、清志のおじいさんて、あの菅野清成なんだよね。大作曲家の。」
「そうだよ。」
「そんな人の孫に、音楽はあくびして、へえー、って言って聴き流せ、なんて言っちゃったんだよね、私。」
「より正確には、あくびして、屁ーこいて、聴き流せ、だけどね。」
「き、聞こえてたのね…。」
「ははっ。まあね。」
私はレコードの準備をした。管球式アンプには既に火が入っている。ボリュームノブが…以下略。
清志は私が淹れたお茶を愉しんでいる。
「諒子の言ったこと、正解だと思うよ。絵にも似たところあるし。一歩引いて見るのさ。」
「あるいは、目をつぶって見る?」
「それ!」
爽やかなストリングスの響きが部屋中の空気に満ちた。
「モーツァルトのヴァイオリンコンチェルトか。おじいちゃんがよく聴いてたよ。この音源はムターの一回目の録音のやつかな。」
「さすがね。」
オーケストラの序奏に続いて、ソロが颯爽と入ってきた。
「あのあとおじいちゃんにその話したらさ、」
「い、言っちゃったの!?大作曲家に、屁ーこいて…。」
「うん、言った。」
「うわ…。」
「そしたらおじいちゃん、一瞬で顔色が変わってさ。」
マズ…。
「なんかブツブツ言いながら部屋の中歩きまわって。」
怒ってる。かなり怒ってる。でも孫には当たれないからガマンしたんだわ。
「普段はまじめで穏やかなおじいちゃんが、それこそ盾風剣太朗みたいな鋭い眼光で言ったんだ。」
ゴクリ…。
「いいか清志、その人を絶対に手放すなよ、って。」
い、意味不明…意味不明な怒り方してるぅ!
「そしてソワソワした様子で仕事部屋に籠っちゃった。僕はすぐにこっちに戻ったんだけど、後で聞いたら三日ぐらい出てこなかったらしい。」
「そ、そんなに怒らせちゃったのね、私…。」
「え?違うと思うよ。」
「えー、だって、真剣に音楽に取り組んできた人に、屁―こいて聴き流せ、なんて言ったんだよ?」
「違うって。」
「違わなーい!ごめんなさーい!」
清志は、ふ、と息を吐いて微笑んだ。
「それからしばらくしておじいちゃん、新作発表したんだけどね、」
「あー、テレビで見たわ、それ。なんでそのお歳でそんなに新鮮な音楽が作れるんですか、って指揮者に言われてたわよね。」
「そう、そうなんだよ。僕が思うに、何か新しい発想と言うか感性と言うか…とにかく、既に老練と言われていた彼にパラダイムシフトを起こさせるぐらいのインパクトを与えたんだよ、諒子の一言が。」
…。
「怒られて…ない?」
「ない。」
「ホントに?」
「ホントに。」
「ホントのホントに?」
「ホントのホントに。」
清志の澄んだ瞳に嘘は無い。
「…なら、いいんだけどさ。」
彼の隣に座ろうと思ってローファーに向かって歩き出したとき、まだ動揺が残っていたのだろうか、私は絨毯につまずいた。
「あっ!」
ガラスのローテーブルが、顔面めがけてスローモーションのようにグイグイ近づいてくる…。
「よ、っと。」
浮いてる。私、浮いてる。
「二回目だからね、お茶こぼさなかったよ。予想してたし。」
「…わ、悪かったわね、ドジで。」
「いいんだ。だって、この絨毯、回転させたよね?」
「…気付いてたの?」
「真っ先に見たさ、あの時のシミがどうなったかを。完全に消えてた。でも、拭いたぐらいでここまで取れるはずがない。この絨毯は一点物だから買い替えは効かない。なら答はひとつ。僕に気を遣わせないために回転させて隠してくれたんだ。それだけ沢山の重いオーディオ装置を移動させてまで。」
「…バレたか。」
「なあ、諒子。」
「ん?」
清志は私を床に立たせ、ローテーブルを回り込んできた。そして…。
「え…。」
キツくキツく抱きしめらた。彼の心臓の音が、世界に二枚しかないシャツを通して大きくはっきりと聞こえてくる。
「ありがとう。」
「清志…。」
大きな胸が呼吸に合わせて規則正しく膨らみ、その度に私は強く押し付けられた。そこはとても暖かくて、眠ってしまいそうなくらい…安らぎを感じる。
「でもね、諒子。僕には何も気を使わなくていい。だから、これからは何も隠すな。僕の前ではカッコつけなくていい。だから、ドジのままでいてくれ。いつでも僕が君を受け止めるから。いつでも君を守るから。」
「清志…。」
「ガラステーブルに顔面衝突なんかさせないから。」
「清志、苦しいってば。」
「あ、ごめん!」
彼は私をパッと放した。私は俯いた。
「…私こそごめん。なんだかテレちゃって。本当は嬉しいのに。素直じゃないね、私。」
そんな私の両頬を清志がてのひらで挟んだ。
「それもまた諒子さ。」
「ん…。」
彼の唇は少し乾いていたが、とても柔らく、暖かかった。