キャッチャー-2
彼には人には言えない苦悩があった。
幼い頃から自らの母親に心を惹かれていた。
母親の名前は高坂充代。
息子がプロ野球選手となり、それなりに楽な暮らしも選べるはずだが54歳になる今もパートは続けている。
息子を出産する前に夫と別れて以来、独身だった。
女手一つで一人息子を育てあげたが、充代と行光は決してベタベタした親子関係ではなかった。
連絡も時折するくらいで、それもメールだけで済ませてしまうことも多い。
行光が実家を訪れるのはオールスター休みとシーズンオフくらいの間だ。
充代は(世の中のプロスポーツ選手の親が大抵そうであるように)、自分の息子の新聞記事をスクラップしている。その機会は決して多くはないが、息子に関する記事は高校時代から全て彼女が目にしたものは全て切り取られていた。
もちろん息子がプロ野球選手として最も輝いたあの年の日本シリーズの記事もある。
今も充代はスクラップブックを開くと一つ一つの記事に思い出がある。
‥充代の心に思い出されるのは息子にとって初めてだったあの年の日本シリーズのことだ。それは日本シリーズが終わってシーズンオフに帰ってきた息子が言った一言だった。
日本シリーズが終わって帰郷した行光は日本シリーズでの活躍から時折マスコミに出演する機会があったが、それ以外はずっと実家で過ごしていた。
翌年行光はキャンプに出かける時に充代に言ったのだ。
「もしも、俺がレギュラーを獲って、再びヒーローになったら‥」
充代はその後の行光の呟いたような言葉は聞き取れなかった。
しかし、充代は母親として、行光を最もよく知る一人の女として彼の言葉を本能的にも判ってしまっていた。それ以来充代はずっと楽しみだった息子の活躍が少しだけ怖く思えるようになってしまった。
それでも行光が時折試合に出場して、活躍する事自体は母親として喜んでいた。
それから何事もなく7年の歳月が過ぎ、充代も行光の言葉を忘れかけていった‥。
息子の突然のトレード志願は充代に過去の記憶を蘇らせた。
最初はプロ野球選手として、一度は勝負をしてみたいという息子の純粋な思いからだろうかと思おうとした。しかし、充代はその思いが間違っていた事を知った。
行光はしきりにレギュラーを獲りたいと言い続けていた。
それが何を意味しているのか充代は新聞を通して、何度も考え続けていた‥。
行光の願いはオーナーに届き、年が明けてすぐに元チームと違うリーグに移籍する事になった。移籍を知らせる行光からのメールは普段通り素っ気ないものだったが、充代は心の奥の不安を押し殺していた。
行光はキャンプが始まった頃から移籍先チームで最も熱の入った選手だと好意的に取り上げられ続けていた。
その年移籍先は監督が代わりちょうど選手の切り替え時期で、彼は誰よりも精力的に取り組んでいた。
それまでの決して越えられない壁と戦い続けた10年間とは訳が違った。
前年のそのチームの主力捕手は100試合にも出場しておらず、行光は現実的に最もレギュラーに近かった。
そして周囲の予想通り開幕から彼は試合に出続けた。
試合に出場した経験が乏しい者の悲しさで、すぐに全身様々な個所が張りを訴えたが彼はまったくそんな様子を周囲に窺わせなかった。
もはや誰にもレギュラーの座を渡すつもりはなかった。
高坂行光はその年129試合に出場し、打率271、12本塁打、51打点、3盗塁を記録した。キャッチャーとして扇の要として重責をこなしながら、初めて規定打席に到達した者としては上出来だろう。
キャッチャーとしてチームでようやくレギュラーになり、盗塁阻止率はかつての所属チームのライバルを上回る412を記録していた。
そして彼はプロ野球選手になって、初めてオールスターに出場し、ゴールデングラブという個人タイトルまで獲得した。
しかし、それらのことは彼にとってそれほど大きな問題ではなかった。
プロ野球選手として自分の本当の実力を示したことは満足だったが、それはそれだけのことでしかなかった。
彼の唯一にして最大の願いはその先にあった。
行光の所属するチームはリーグ戦で2位となった。
前年のBクラスから一気に2位になった勢いを借りて、そのままプレーオフを制し日本シリーズに駒を進めた。
もちろん対戦相手はかつての所属チーム。
今年でV26となる。
行光はこのシリーズに母充代を招待することにした。
それは特別なことではなかったが、光代も行光も今までと同じ気持ちで迎える訳にはいかなかった。充代は息子から届けられたチケットを震える指で何度も意味なく弄っていた。
行光はこのシリーズに賭けていた。
打席に入ったとき、守備についた時、かつて自分の目の前に立ちはだかった巨大なライバルを意識しないではいられなかった。
ライバルはそんな自分など視界に入らないような態度を取ったため、行光は熱くなるばかりだった。
もっともこのシリーズは行光のチームに勝ち目はほとんどなかった。
かつての所属先はあまりに強すぎ、勝つ事を諦めさせてしまう成績をもう長年続けていた。
それでも球場が満員になり、試合中継は視聴率をとり続ける以上そんな状態に異議を唱える者はないのだったが。