序章-1
同じマンションに住む黒川夫婦には子供がいなかった。旦那は少し変わった人だ、エレベーターに乗り合わせても常にヘッドフォンで音楽を聴きながら奥さんに引率されるようにマンションの外まで見送りされているような人だった。乗っている車は欧州の高級車だが随分型落ちした古い外車だ。地下駐車場に置かれた外車は、洗車された跡をみたことがなかった。動物を飼っている様子もなく30代半ばの奥さんと40代の旦那でひっそりと暮らしているようだった。毎朝奥さんは朝刊を取りに行っている。出勤時にエレベーターですれ違う度に、おはようございまーすと挨拶してくれる人だった。身なりは膝丈のスカートで薄い化粧に簡単な部屋着だ。背丈は160cm無いだろう。少しまる顔で柔らかそうな白い肌の女性だった。そんな奥さんに平日の昼間、隣町のデリヘルでフリーで呼んだらホテルの玄関でばったり出会ってしまったのだった。
「えっと、黒川さん?」
「ちょっと、中にいい?」
慌ただしくホテルに入るなり、周りを気にするようにデリヘルのキャリーバックを置いてお店に電話をし始めていた。
「サリナです、お客様に入りました。120分です。はい。はい。分かりました」
「サリナって言うの?」
奥さんは何も言わずにキャリーバックを開けて事前にお店に伝えていたブレザーの制服とティーバッグとヒールを取り出していた。
「お風呂は沸かしてあります。ところで、本当に黒川さんなの?」
「お願いします。旦那には言わないで下さい」
俯いて小さな声で零すように呟いてた。普段着と思われる膝丈スカートから覗く白い生脚が生々しく僕を刺激していた。
「言わないけど、僕が客でもいいんですか」
「お店にも言わないで下さい」
道具をテーブルに置き終えた奥さんは怯えるように僕を見上げて視線を逸らしていた。
「誰にも言わないよ。それは約束するよ」
「どうかお願いします」
深く頭を下げて僕の隣に座って良いものかオドオドと周りを見渡しているようだった。
「驚いたなぁ。まさか黒川さんだとはね」
「声大きいです。ダメなんですお願いします」
「ダメってどう言うこと?」
奥さんはバックに手を入れてメモ帳を取り出して何かを書いているようだった。
「じゃあ、お風呂入りましょうか」
わざとらしくら大きな声で言いながら一枚のメモ帳を見せてくれていた。
「何ですかこれ」
そこに書かれていたメモは、殴り書きで読みにくい字で何かを伝えているようだった。
声を拾われてます。だからだまって言うこと聞いてください、黒川なんて言っちゃだめ
「本当ですか?」
だまって頷く奥さんに唖然としてしまっていた。
「じゃ入りましょーね」
唖然とした僕は何も言葉がでなかった。それでも僕を促すように膝を突く奥さんに、いや風呂は入って待ってたのでいいです。と言うことで精一杯だった。
「じゃ、そこで待っててね。さっと身体洗ってくるわ」
言い残してコスプレ道具を持って浴室に向かおうと立ち上がっていた。僕は奥さんの手を掴んでメモ帳に答えを問うように聞きたいことを書き出して答えを待っていた。
誰にも言わないけど、一度どっかで話を聞かせてくれますか?
奥さんは黙って頷き、俯きながら浴室に消えてしまっていた。