イノセント・ラブドール-2
微かな息の音だけが手にした携帯電話の先から聞こえてくる。気だるく溺れていくような男の
呼吸が私の中を少しずつ溶かしていく。その彼の息の音も途絶えると長い沈黙が続いた。すべ
ての気配が消え、ひしひしとした静寂だけが私と男のあいだの電話に漂っている。
今すぐにでも電話を切ればいい。だけど私はその電話を切ることができない。漂う静寂は淫ら
に私のからだに纏わりつく。
男は私を所有しているのだ…ラブドールとして。心の奥底とからだが重苦しい沈黙に支配され、
恍惚とした呪縛の中に閉じられていく。それなのに身体の窪みは甘美な畏怖感で充たされ、ゆ
るやかな潮が満ちるように泡立ってくる…。
あなたはいったい誰なの…
咽喉から絞り出すようにふたたび私が言葉を吐くと、電話の先から静寂を爪で掻くようにひそ
やかな男の声が洩れてきた…。
………
十八歳になったばかりのぼくがラブドールに特に興味があったわけではない。それなのに彼女
にそっくり似た(むしろ彼女そのものだとぼくは思っている)、等身大の人形はぼくにどうして
も必要なものなのだ。
ぼくのラブドール…彼女の名前は同級生のマイコさん。彼女は転校生だった。知らなかった…。
学校を休みがちのぼくはいつ彼女が転校してきたのかさえ知らなかった。彼女はまるで木陰か
ら吹いてくるさわやかな夏風のようにぼくの目の前にあらわれ、ぼくの鼻先をしっとりとした
匂いで潤した。
ぼくは彼女が青い夏空の下のテニスコートで真っ白なウェアに包まれ、ボールを追いかけてい
る姿を近くの土手の上からずっと眺めていた。彼女を眺めているだけで、ぼくはいつのまにか
甘い蜜で潤されるように彼女の感傷に浸ることができた。
彼女のラブドールは、ネットで探した工房にぼくが彼女を盗み撮りした写真(けっして悪気が
あったわけではない)を数枚送り、特別に注文したものだった。
三か月後、彼女と同じ制服を着せられて送られてきたラブドールは細緻で芸術的な蝋人形以上
に、《人間としてのマイコさん》そのものだったことにぼくはとても驚き、ぼくの中を身震い
させるように疼かせた。
奇妙な夢を見た…。
どこからか飛んできた蜜蜂をぼくは追っていた。ぼくは、白い花の花芯にとまり、花糸と戯れ
ながら蜜を採っていた蜜蜂になぜかとてもむず痒い嫉妬を感じた。いつから蜜蜂はその花にと
まっていたのかぼくにはわからなかったが、蜜蜂が真っ青な空に飛び立ったときぼくはその蜜
蜂を確かに憎んでいた。
それはきっとその蜜蜂が白い花にとまっていたからなのだ。いや、ほんとうに蜜蜂がとまって
いたものが白い花だったのかはわからない。白い花と思っていたものは、ぼくのまどろみの中
で白い光芒の塊りに形を変え、美しい姿に変わった。それはぼくのラブドールだった。蜜蜂が
戯れていたのは、ぼくだけのものであるマイコさんのラブドールだったのだ。