The depression of a poor boy-1
この部屋で綺麗な夕焼けを見たことはない。
灰色の雲と混ざり合った濁ったオレンジ色は古く腐った温州みかんみたいな濁色。
いまどき珍しい木枠の窓ガラスは曇っていて、磨かれなくなって久しい事を物語る。
西日のあたる変形四畳の畳は枯れた藁のように白くささくれだっていた。
翠は部屋の万年床の隅で膝を抱えてうとうとと居眠り。昨日の夜は母さんの新しい「彼氏」が来るので一晩中街を彷徨っていた。
盛り場にいて見つかったら補導されてしまう。コンビニにいれば通報される。捕まったらまた母さんが警察に呼び出され説教されるし、帰ったら酷いお仕置きが待っている。だから翠也が身を隠すのは暗いガード下や公園のトイレの中。雨が降ってきても大丈夫なように。
雨は、とても辛いから。
翠は瞳を母親の古いドレッサーの鏡に移す。
そこには理容室に行くことも出来ず、母親の手でぞんざいに切られた長めの髪を乱したみすぼらしい小学生の姿が映っていた。
襟がよれよれになった黒いTシャツは大人のものでブカブカ。襟元から肩が出るくらい。デニムのパンツは中国製のノーブランドの古着で、これもサイズが合わないのか裾が擦り切れている。
そしてどこか日本人離れした鳶色の肌と、悪く言えば「三白眼」と呼ばれそうな大きな瞳。
学校があるうちは給食がある。みっともないので静かに食べるけど、本当は皿まで噛み砕きそうなほどの空腹を抱えている。それでも一日一回のちゃんとした食事は翠の生命線だ。
だけど先週から夏休みに入り、その生命線が断たれてしまった。
絶望的な「飢えの季節」をどうしたらいいのか。翠は縋る当てもない。
クラスメイトはお互いに頻繁に友人同士の家を訪ね、ゲームで遊び栄養が過剰なスイーツを食べ散らかしている。そして嫌いな物は平気で生ゴミにしてしまう。
翠は教室の隅でそんなクラスメイトの話を聞くともなく耳にしていた。
翠には友人がいない。
幼稚園にも保育園にも行った記憶はない。小学校一年の歳になったとき、母親ではなく区の職員の手で入学した。母親はその職員たちを相手に半日も文句を言い続け、どんな予算から振り分けられたのかわからない雀の涙のようなお金を手に新しい「恋人」の所に行ってしまった。
それでも、一日一回の食事は涙が出るほど嬉しかった。
それから翠にとっての憂鬱は土曜日と日曜日のひもじい二日間となる。
アパートのそばにかたちだけの煙草屋があり、そこにいつも置物のように座っている老婆は猫が好きで、時折外に出ては茶色や三毛、シャム猫の雑種を集めて餌をやる。
翠はすることもなくそれを眺めていると、老婆は手招きして手に持った鶏のササミを振る。
飢えた翠が近づくとササミをぞんざいにアスファルトに落としてそれを指さす。そして手振りでそれを食べろと命令する。手を使わずに、食えと。
埃と砂利にまみれたササミは、それでも美味しかった。
ママは夕方出かける前に「今日の夜はデートだから」と言い残していった。それはママの問答無用の退出命令。
ママの気まぐれはいつも予想できない。時には夜にもならないうちに男を連れ込んだりもする。でもママが相手をする男たちは大抵まともな勤め人で、明け方には部屋からいなくなる。
だから、今日は明日の朝までボクが「蒸発」すればいい。
翠はサイズの大きな廃品のようなスニーカーを素足に履くと、アパートを出る。
この部屋に鍵がかけられた事は一度だってない。
今日は晴れる、と翠は思う。不思議に翠の天気予報は100%の確立で当たる。
空気の匂い、風の流れ、湿気とその雰囲気。街路樹の木の葉の色。世界が翠に明日の昼頃までの雲と水の動きを教えてくれる。
晴れならじめじめしたガード下にいなくてもいい。
近くの公園は小さいけれど遊具がいろいろあり、象さんの形をした築山には土管が埋め込まれ、夜露から逃れることが出来る。
なにより、水道があるから久しぶりに身体を洗うことだって出来ちゃう。
翠はほんの少し気分が良くなった。