『秘館物語』-15
浩志は既に自室の人となっていた。何をするでもなく椅子に腰掛け、風の吹き付ける窓を見ている。
だが彼の視界はそこにはない。地下の映写室でみた淫靡な光景が視神経に焼き付いており、それを何度となく頭の中で映像化してリフレインさせていた。
その中で見た三人の女性。最初の女性が誰かは知らないが、おそらく志郎の若かりし頃の恋人だろう。
二人目は、口より先に足が出る元気なメイドの大崎望。そんな望が、普段の彼女からは想像もつかない痴態ぶりを晒して、志郎にすがっていた。それに応えるように志郎も彼女を労わる場面もあったから、きっと二人の間には確かな愛情があるのだろう。期せずして、碧といつか交わした会話は真実であることが証明されたわけだ。
(碧……)
その名を思い浮かべ、浩志は絶望の淵をまたしても覘きみてしまった。フィルムの最後に出てきた半裸の女性。それはまごうことなき、碧の姿。
(………)
一瞬だけ見た彼女は、シーツを身体に巻きつけて、全てを晒すことに対して初々しい恥じらいを見せていたが、それまでのフィルムの経過から見れば、その後どんな姿に変貌していくかは目に見えていた。
彼女に惹かれていることを自覚した今、それは浩志にとって耐えがたき絶望を与えるものだ。だから、フィルムを止めてしまった。
そのために、浩志の妄想は止め処なく彼を責める。志郎の辱めを一身に浴びて、それでも情愛の熱視線を志郎に向けている碧の痴態……。
胸が、苦しい。
「浩志さん」
彼女の声が聞こえるぐらい、浩志はそのことばかりを考えていた。自分はそのつもりだった。
こん、こん。
「?」
だが、ノックの音は幻想ではない。浩志はあわてて扉の方を見る。
「浩志さん、いますか?」
「!?」
間違いなく、碧の声だ。反射的に浩志は扉に飛びつくと、そのドアを開いていた。
「あ……」
その姿を確認した瞬間、浩志は自分の迂闊さを呪う。フィルムの悪夢に捕らわれいた自分のことをすっかり忘れていた。
「こんな時分に、ごめんなさい」
そんな浩志の葛藤にも気づかない様子で、ぺこり、と頭を下げる碧。髪を下ろした寝巻き姿が、実に新鮮だった。
(なに考えてんだよ……)
手が届く距離にあったはずの女性。あのフィルムを見るまでは、淡い期待も存在していた。
「ダメだよ、碧さん」
「え?」
「こんな時間に……。父さんに、叱られるよ」
「………」
碧の顔に張り付いた疑問符は、やがて納得の意思に変化した。
「お話があるんです」
「俺に?」
「はい」
有無を言わせない態度の碧。
「お部屋に、入っても良いですか?」
「ダメだって、父さんに……」
「旦那様は関係ありません!!」
思いがけない強い口調に、浩志は肩を震わせた。
「!?」
そのまま碧が、激しくしがみついてきた。その勢いの強さに、思わず後ろへずってしまう。
「私のこと、嫌わないで……」
「え……」
「好きかどうか、聞いてもいないのに、浅ましい女だと思います」
「なにを……」
「でも、あなたに嫌われたくないです……だって……」
「………」
「好きなんです、あなたが。私、あなたを好きになってしまったんです!」
「!」
思いがけない告白は、激しい動揺を浩志にもたらした。
「で、でも……」
浩志の思いに重しをかけるのは、あのフィルムの存在。何処に彼女の真実があるのか、浩志にはつかめない。
「お、俺……わかんないよ……」
だから、そんな言葉が独白のように口から零れた。支えた碧の細い肩を強く抱けない、臆病な自分に嫌気を覚えながら。
「私の気持ちは、ひとつだけなの……」
顔をあげた碧。その瞳が淡く潤んでいる。薄く色づいた唇が、小刻みに震えている。
「………」
儚い美しさ。まるで、一夜の命に全てを賭けているカゲロウの羽のような。
「碧、さん……」
魅入られた。浩志は、右手をそっと小さな頬に添えると、そのまま顔を寄せる。
待ちかねていたように瞳を閉じて、碧は薄く唇を開いた。
その隙間を埋めるように、浩志は唇を重ねる。とても柔らかい。そして、暖かい。かすかに感じる吐息の香りは、甘い味で浩志の口内を満たした。
フィルムのことや、今までの葛藤をすべて無理やり忘れて、今はこの柔らかさを堪能したかった。そんな男の狡さを自分も持っていることに気づいて、浩志は少しだけ暗い影を抱きながら、それでも飽かずに碧の唇を味わっていた。