第三章 制裁されたハーフモデル-5
隣に座ると、男が溜息混じりに言った。彼の薦めによってホームから駅務室へ、そして警察署へ来る羽目になってしまった。あんたのせいだ、と言いたいところだが、それは八つ当たりだということは保彦にもわかっている。
無論、こうなってしまったのは――
「……今、何時ですか?」
保彦は憤怒を虚空に散らすように問うた。
「ええと」男は周囲を見渡し、少し離れた壁の時計を見て、「十時になったところですね」
百貨店が開いてしまった。保彦は肩で息をついた。
「何か用事でもあるんです?」
「ええ……、まあ……」
恋人を見張るのだ、とは言えない。「でも、間に合いません。……すみません、俺のせいで」
「いや、構いませんよ。当然の事をしているだけです。しかし人違いとは……ったく、あいつって奴は」
男はそう言って、土橋に嫌疑をかけた女を思い出している様子だった。
「知り合いなんですか? あの女、……女の子と」
保彦は角度がありすぎて全く寛げない背凭れに身を預け、ホームでのやりとりを思い出しつつ、「……先生、って呼ばれてましたよね?」
「ああ、教え子ですよ。私、高校の教員をしてます」
きっと体育だな。
セカンドバッグを抱えた毛深い腕はかなり筋肉質だ。中年なのに隆々とした体をしている。
ただ、体の健康度では土橋とは大違いだが、彼も総合的なルックスには恵まれていなかった。若い頃からスポーツをしてきたせいなのか肌シミが多く、赤錆色の顔がゴリラを思わせる。
……そうだ、女が彼を見た瞬間、呟いていた。ブサノ。
「お名前聞いてませんでしたね」
「そうでしたね。私は草野といいます」
なるほど、それでブサ野か。いかにも小生意気な女子高生が見目劣った教師を侮ってつけそうなニックネームだ。納得して保彦は土橋の苗字を名乗り、
「あの女の子は何者ですか? 何だか、ただの女の子ではなさそうなことを言われてましたよね」
「ああ、在学中からファッション雑誌に出てたんですよ。ほら、読者モデル、って言うんですか? アレです。卒業後は本格的にその道に進んでいるって耳にしてましてね」
「へぇ、何て言う名前ですか?」
モデル、か。だからあんなに――特に土橋のような醜男相手には――クソ生意気だったのか。
「アスコエリア真璃沙」
「え? アス……?」
ホームで一度、そして今もう一度聞いても、スッと頭に入ってこなかった。
「アスコエリア、ですよ。変わった苗字でしょう? 見ての通り、ハーフです。父親が外国人ですね。海外でも珍しい苗字のようですよ」
確かに日本人離れしたスタイル、特に手足の長さが秀逸だった。
だが多くの人間がいる前でも直情的にキモい、変態、死ねと気の向くままに悪言を並べたところを見ると、気が強いというよりも、常に自分が物事の中心にいて、自分の価値観が基準にならなければキレるワガママな女なのだろう。
「しかし、あまり教師の言うことを聞く生徒ではなかったですねぇ……いや、今どきの高校生なんて、誰も教師の言うことなんか聞きませんけどね。そういった点では他の生徒と全く変わらなかったのですが、まぁ、あの見た目でしょう? なんと言うか、自分を特別扱いしてもらいたい思いが強くて。だから他の子以上に、大人に対して礼儀がない、あんな性格になってしまうんでしょうね」
そらみろ。
保彦は自分の見立ての正しさに深く頷いた。そして警官たちのいる方を窺う。いつまで待たせるつもりなのだろう。草野と雑談をしているにも限界があった。
「……おそらく、突き合わせをしてるんでしょうね」
保彦の心が伝わったのか、草野も同じ方を眺めた。
「突き合わせ?」
「私、電車でのことをかなり詳しく訊かれましたからね。土橋さんの話と矛盾がないか照らし合わせてるんですよ。それに……」
草野は気不味そうに鼻息で笑い、「土橋さんに前科がないかも調べてると思いますね。あと、私と土橋さんが本当に見ず知らずなのか、もかな。私と土橋さんが共謀している可能性もありますから」
なるほど。保彦は草野の分析の明るさに感心し、
「そんなこと、よく……」
わかりますね、と言おうとしたら、警官たちがやって来て、お待たせしました、問題はないのでもう結構です、とあっさり言った。
漸く解放されて保彦は息をついた。壁の時計はもう十時半に近かった。
愛梨が朝一番に来るとは限らないし、一週間続く催し物で今日やって来るとも限らない。ほんの少しロスしただけだ。とにかく日本橋へ急ごう。
努めて気を取り直して、草野と駅までの道のりを歩いている途中、
「これも何かの縁かもしれませんね、私の連絡先です」
とガラケーに表示された電話番号を見せられた。
何のために? そう思ったが、
(……ま、俺の携帯じゃないからいいか)
とワン切りをして土橋の番号を教えた。
草野と銀座線の乗り口で別れ、保彦はやっと日本橋に到着することができた。
改札を出て地下道から百貨店を目指した時には十一時を回っていた。