絵里子-1
第1話 ――絵里子――
なにもない朝だった。
いつものように夫が仕事に出掛けていくのを見送ると、まだ朝ご飯を食べていた娘の登園準備に取りかかった。
プリントを眺めて必要なものを通園バッグに入れてやり、最後にお弁当箱を詰めると、自分も出掛けるための支度に取りかかる。
2階の寝室に戻り、ドレッサーに映る自分の顔を眺めながら頬紅やアイラインを入れていく。
ほかのお母さんたちの目があるから化粧は薄めにして、袖を通すのもいつもと似たような明るめのワンピースを選んだ。
慣れ親しんだエルメスのトートバッグに必要なものを入れて、下に降りると娘がちょうどご飯を食べ終えたところだった。
ちゃんと自分で片付けることを教えて、キッチンから戻ってきた娘の頭に園帽を被せた。
なにも忘れ物がないのを確認してから、ふたりで家を出た。
通園バスの停留所は、玄関から200mほど進んだところにあり、すでにほかの母親たちが輪になって世間話に花を咲かせていた。
おはようございますと、丁寧に頭を下げると、おはようございますと口々に返ってきて、自分もその輪に加わった。
愛想笑いを浮かべながら相づちを打っているところに通園バスがやってきて、乗り込んだ娘は、窓から顔を出しながら、ママぁ、いってくるねえと、うれしそうに手を振ってくる。
気をつけてね、と自分も手を振りながら笑顔で応えると、バスは走り出して見送りに来ていた母親たちは10mも進まないうちに潮が引くように散りだした。
それじゃあ、と頬に作った笑みを貼りつけて、さりげなくフェードアウトしようとしたところに、不意に背中から声を掛けられた。
「三崎さん、どこかへお出かけ?」
「え、ええ……ちょっと市役所に用事があって……」
そう答えたあとに、今が市役所の開いている時間だったかを必死に頭の中に思い出す。
「あら、そうなの」
と、古参のうるさ型で有名な母親は、たいして気に留めた様子もなく、じゃあね、というと、すぐに振り返って自宅へ向かう道を戻っていった。