悲しみのシーサイド-3
電車通勤の豊川は普段からあまり自家用車は使用していない。平日は会社だし、休日に車を使って出掛けることも少ない。せいぜいホームセンターに買い物に行く時ぐらいだ。
車は乗らなくても維持費が掛かる。税金、駐車場代だけでもバカにならない。そこに数年ごとに車検代も掛かる。
それでも愛車のミニバンを手放す気にはならなかった。例え維持費がかかっても。
それには理由がある。この車でよく菜緒を乗せて出掛けたからだ。菜緒もこの車がお気に入りで、近くのスーパーに行くのにも車を使っていた。
中学生になってからは、部活の送迎で遠征などにも使った。普段はあまり話をする機会も無かったが、この狭い空間で親子の会話をする事で、つながりが保てていたと言っていい。お年頃を考えると、自然に父親から離れていってもいいはずだが、そうならなかったのもこの車のお陰だと言ってもいい。
そう、思い出の塊なのだ。
運転をしながら、豊川はある決意をしていた。今日、奈津美に結婚の話をしてみようと。
ここ数日の二人の間に漂う空気と言うか、流れと言うか、飯島の言う『勢い』つまりタイミングがキテいるように感じていた。そう確信していた。
豊川は海に行こうと考えていた。雰囲気やシチュエーションは悪くないはず。プロポーズまで発展するかどうかはわからないけれど、今の現状より前進していきたいと思っている。
即結婚を匂わす答えが返ってきたら、その時は正式にプロポーズまでしようと考えていた。
しかし、それがあまりにも楽観的な考えだということにはこの時点では微塵も感じていなかった。
最寄りの駅でピックアップした奈津美は、いつもよりも緊張した面持ちだった。自分の心情が察知でもされているのだろうか。豊川はそう思った。
「折角の休みなのに、運転させちゃってゴメンね」
「かまわないよ。たまにはエンジン掛けないと、バッテリーにも良くないからね」
「で、今日はどこに行くの?」
「海はどう?」
「海か・・・・・・わかった。お願い」
高速を飛ばして1時間半ほどで海に着いた。多少の渋滞はあったけれど、久しぶりのゆったりとしたドライブを楽しんだ。
海のそばの海鮮茶屋で昼ご飯。新鮮な海鮮丼に舌鼓を打つ。刺身が好きな奈津美は、常に上機嫌だった。
(今日は雰囲気もいいし、忘れられない日になりそうだ)
自らのテンションが上がっていくことがよくわかった。
見晴の良い展望台を見つけた。
豊川は『ここだ』と色めき立った。
車を降り、突端にある展望場に向かって歩き出す。休日の割に、人の出はさほどでもなかった。
突端に向かう道は、小さな林を抜けていく道と、崖沿いに沿った道の2ルート。奈津美が先を歩き、人気の少ない林道に入っていった。
豊川は、海が見えた瞬間に言おうと思った。正式なプロポーズではないけれども、結婚を意識させるポイントになるはずだから・・・・・・と。
林道が終わりに近づき、そろそろ海が見えてくる。もう少しと思った時、奈津美の足が止まった。豊川との距離は2mほど。つられて豊川も歩みを止めた。
奈津美が振り返る。
「晃さん。私たち今日で終わりにしよう」
耳を疑った。時が止まった。
呆然とはこのことだろう。豊川は声を発することが出来なかった。何か喋ろうとしても声が出ない。
(え!?奈津美何て言ったんだ。終わりって・・・・・・嘘だろう。俺の聞き間違いだよな)
そう言いたくても口をパクパクさせるだけで、意思を声で伝えることが出来ない。
「ごめんなさい。好きな人が出来たの。晃さんよりももっと好きになっちゃったの」
奈津美の口から聞こえる言葉は、自分との交際を終わらせたいと言っている。
(嘘だよな。嘘だろ。そんな馬鹿な話あるか。最近のイイ雰囲気は何だったんだ!!)
「奈津美・・・・・・」
ようやく出た言葉は、彼女の名前だった。
「晃さん。長い間ありがとう」
奈津美は深々と頭を下げた。
辺りは薄暗くなってきた。海の向こうに陽が沈んでいく。この素晴らしい景色を、幸せな気持ちで見ていたはずだった。自分の思い描いた画では。もちろん、横にははにかむ奈津美の姿があった・・・・・・はずだったのに。
奈津美はうなだれる豊川の横で。事の真相を告げた。
豊川より別の相手と一緒に歩む道を選んだ奈津美。その相手は、なんと先日店に来た憤慨した客だった。
嫌な客だったが、言っていることは至極まっとうだった。ただ態度が気に食わなかった。
そう思いながら、そのストレスを豊川とのSEXで発散した。
しかし、巡り合わせは恐ろしい。本来月曜日は出勤日ではない奈津美であったが、予定していた娘が2人も急遽休むことになり、奈津美にヘルプの連絡が入った。仕方なく出勤した奈津美に、あの横柄な男が再びやって来た。しかも指名。
いやいやながらも、プロ根性を見せ笑顔で接客する。
席に付こうとした瞬間、男は予想もしない行動に出た。深々と頭を下げたのだ。それも土下座までするんじゃないかと思えるほどに。
先日の安直で幼稚な行動を取った自分が許せず。週末悶々としていたらしい。
どうやら酒癖が極度に悪いらしく、それを自覚もしている。先日は、ちょうど悪いタイミングで奈津美と遭遇した。案の定、酷いことをしてしまった。
酔いが醒め、自分の犯した非礼を恥じた。一刻も早く謝りたい。その気持ちが今目の前で実行された。
普段の男は、とても紳士的で常識的な男だった。酔っていても自分自身が共鳴する部分が多かったし、心のどこかでは『尊敬できることを言っているくせに何なのよこの態度は』と思っていたのかもしれない。そんな揺れた気持ちがあったからこそイライラしていたんだと気付いた。
この人のことが好きなんだ。そう思った奈津美の心の中に、もう豊川の姿は無かった。