父の温もり(前)-3
アーケードを出て良く晴れた夏の夜空の下を二人は歩いた。
「ごちそうさまでした。ケンジさん」
「あの店、気に入った?」
「ええ。とっても」
「今度は修平くんと食べにくるといいよ。昔からの行きつけなんだ」
一本の白い街灯の下に蚊柱が立っていた。
夏輝はバッグからハンカチを取り出して額の汗を拭った。
ケンジはそんな夏輝をちらりと見て、言った。「夜でもまだ暑いね」
「そうですね」
「でも、今は修平くんが君をたっぷり愛してくれてるわけでしょ? いつでも優しく抱いてくれるんじゃない?」
夏輝はふいに立ち止まり、懐かしそうな目を夜空に向けた。「修平が初めてあたしの部屋に来た時、お父ちゃんがいないことを話したら、背中からあたしをぎゅって抱いてくれたんです」
「そう」ケンジは微笑んだ。
「その時、彼『おまえの父ちゃんの代わりになんかなれねえけど、こうしていつでも抱いてやっから』って言って、少し涙ぐんでました」
「優しいね、修平くん」
夏輝は無言で何度もうなずいた。
「いい彼氏と結婚したね」
夏輝はケンジの顔を見た。「でも、修平はやっぱりお父ちゃんの代わりにはなれない」
「そうなの?」
「だって、同い年でしょ? 修平は恋人や夫としてあたしを抱いてくれるけど、やっぱりお父ちゃんみたいに大きく包み込んでくれるわけじゃない」
「なるほどね」
「でも別にあたし修平にそんなことを望んでるわけじゃないし、彼に抱かれると別の意味でとっても満足するから、気にしてないんですけどね」
歩き出した夏輝の横顔を見て、ケンジは数回瞬きをした。
二人は、夏輝の家へ向かう脇道に折れた。そこは街灯が少なく、人通りもほとんどなかった。
「あ、もうこの辺りで結構です。すぐそこですから」夏輝が言った。
「そうはいかないよ。何かあったら修平くんに何て言われるか」
「大丈夫です。あたしも一応警察官ですから」夏輝は笑った。
ケンジは立ち止まった。夏輝も同じように足を止めた。
「でも今は丸腰でしょ? それに、酔ってるし」
夏輝は黙って横に立つケンジの横顔を見上げた。
ケンジは夏輝を横目でちらりと見た後、躊躇いがちに言った。
「今日の夜、一人だと寂しいんじゃない?」
夏輝はケンジを切なげな目で見つめたまま黙っていた。
ケンジは空を見上げた。「きれいな星空だなあ……」
夏輝も思わず天を仰いだ。まるで降るような星空だった。「本当に……」
その時、ケンジの手が、そっと夏輝の肩に置かれた。「あ……」夏輝は思わずケンジを見た。するとケンジは、もう一方の腕を夏輝の背中に回し、自分の方に抱き寄せた。
「ケ、ケンジさん……」
戸惑う夏輝に考える余裕も与えず、ケンジはその温かい両手を肩に柔らかく乗せたまま、彼女の額にあっさりとキスをした。その行為は決して無理強いではなく、極めて自然で、しかも洗練されていさえした。
ケンジはしばらくの間夏輝の目を見つめていた。夏輝は潤んだ瞳でケンジの目を見つめ返した。
どちらからともなく二人は唇を重ね合わせていた。
夏輝の身体からすっと力が抜け、ケンジの腕にすっかり身を任せて、いつしか彼の温かく、蜂蜜のように甘い香りのする唇の感触を味わっていた。
そのかすかに震える唇から口を離したケンジは、夏輝の耳元で囁いた。「僕の家に行こうか」
ケンジに肩を抱かれ、夏輝はまるで恋人同士のようにケンジに身体を寄せて歩いた。