ヴィーナスの思惑-5
気だるい体を引きずるようにして浴室を出る。ミチオは全裸のまま固い椅子に腰を下ろすと、
瞼をゆっくり閉じる。まどろむようなあの人の姿が、夕闇に包まれた窓の外で降り始めた雨の
音とともに彼の心を優しくすくいあげる。
雨の中であの人が履いたハイヒールの踵が硬い床を刻む音がどこかで響いた。雨音にかき消さ
れそうな足音は聞きとれないほど微かだというのに、ミチオのものは、その音に吸い込まれな
がら小刻みに震えはじめる。
息をひそめて待ち焦がれた彼女の足音の気配は彼のからだをゆっくりと開かせる。彼女の足音
はどこまでも冷ややかなのに、それはけっして息苦しいものではなく、どこか癒しに似ていた。
彼女の細い足首にまとわりつく光と音は、ミチオのため息を心地よく吸った。瞼を閉じたまま、
彼はあの人の面影を胸いっぱい吸い込む。彼女の髪が宙にふわりと解け、唇の端が微かに開く
と、彼女のうなじに漂った香りが彼の脈拍を昂ぶらせる。彼女の輪郭は淡く、おぼろなのに、
細く伸びた脚の先端に溜まった艶やかな空気だけが彼の瞳の中に斑に拡がった。
ミチオは、用意していた奇怪な形をした男性用の貞操帯を取り出すと、射精を終えた自らの性
器にゆっくりと嵌める。男性器を模した空洞の筒のような貞操帯が萎えきった、ぬるりとした
肉幹をぴったりと包み込む。精を尽くしきった彼のものは、養分を失いかけた、萎れた茎を感
じさせたが、透明で冷たい硬質の樹脂で作られた貞操帯の中で、亀頭のえらも、幹の包皮も、
なぜか冴え冴えとした、咲き始めた薔薇の花びらのような色合いを深めていた。まるでプラス
チックケースの中に入れられた、生まれたばかりの、毛のない幼虫が、先端の紅色の鈴口だけ
を可憐にのぞかせていた。
貞操帯の幹の部分のわずかな円弧の曲線は、男性器の勃起を抑制し、陰嚢の根元を強く絞め上
げた貞操帯のリングに掛けられる小さな南京錠だけによって、彼のもののすべてが支配される
ことになるのだ。ミチオはペニスを封じた貞操帯の南京錠に鍵をかける。彼はこの貞操帯を
自ら外すことはできないのだ。なぜなら、彼の貞操帯の鍵は、あの人だけが所有し、あの人の
意志だけによって解くことができるのだから。ミチオは、あの人に書いた短い手紙とともに、
貞操帯の小さな鍵を封筒に入れた。
ミチオがあの人と出会ったのは半年前だった。彼がアルバイトをしている地下鉄R駅近くの
コーヒーカフェの隅の席で、いつも誰かを待っていた。
彼女は三十歳くらいの年齢だった。葡萄酒色の衣服を着た女のふくよかな胸の隆起と悩ましく
くびれた腰つき、肉惑的な臀部…そして黒い網目のストッキングに包まれた脚肌から滲み出た
光が、しなやかに零れていた。妖艶であり毒々しい糜爛をまぶしたような容姿は、どちらかと
いうと男の身を撚らせるような蠱惑をもち、彼女の酷薄な瞳は蜂蜜のような甘い唾液をミチオ
の舌に溜めさせた。ミチオは、いずれ自分が彼女に《与えられたもの》となり、彼女に対する
欲望だけをゆるされ、また、彼女のどんな欲望も受け入れなければならないことを予感した。
彼はこれまで異性に恋した経験がなかった。異性を感じることに違和感をもっていたミチオは、
自分の中に何か性に対する歪んだものがあることに気がついていた。それは、異性に恋したい
と思うことに、ある種の異質な不自然さを感じ、なぜかそういったこととは違う関係性を異性
に求めていた。それは男としての健康的な感情が失われているということではなく、おおよそ
ふつうの男が抱く、ふつうの欲情を必要としないことの意味の方が正しいと思っていた。
ミチオは彼女に《与えられたもの》となり、彼は彼女にすべてを奉仕するだけの男になる。
なぜならミチオが彼女に与えられた瞬間から、彼女は彼を所有した女になるのだから。そう考
えることがミチオにとってはけっして不自然なことではないと思うようになっていた。