ヴィーナスの思惑-15
「あなたの想いが向かうべきところを失ったということなのかしら」
「精神的にも肉体的にも、ぼくがあの人与えられた存在でない限り、ぼくは、ぼくではないん
だ。自分ではそう考えている」
ミチオの言葉に聞き入りながらアカネさんがグラスから青い液体を啜ったとき、彼女の咽喉が
微かに蠢く。彼女はグラスをテーブルの上に静かに戻すと言った。
「それが彼女から虐められる奴隷としての調教の苦痛であっても…」
「確かに奴隷と言えるものかもしれない。ぼくはあの人の調教が続けられている奴隷である限
り、ぼくは彼女に恋することができるし、あの人とどこまでも深く溶け合うことができる《調
和》を感じことができたような気がするんだ」ミチオは遠い記憶の匂いを胸に深々と吸い込み
ながら言った。
そのときだった…。
ふたりの背後に突然現れたひとりの若い男…。ふり向いたミチオは、一瞬自分の目を疑った。
アカネさんは、少し驚いた表情をしながらもその男に冷ややかな視線を注ぐ。
その男の顔…
男は十五年前のミチオだった。いや、ミチオであってミチオでないような男だった。彼は目が
窪み、頬の肉がげっそりと削げ落ちた虚ろな顔をしていたが、間違いなく、あの頃のミチオだ
った。彼は、アカネさんの前でつかみどころのない表情で沈鬱な会釈をした。どこか生気が失
せた彼は、まるで陽炎のようにミチオとアカネさんの前に佇んでいた。彼はアカネさんにすが
るように、恍惚とした瞳の中に物憂い光を澱ませていた。
不意に彼は、無機質な低い声で呟いた。
「燿華様、ここにいらしたのですね。やっとあなたを見つけることができました…」
彼が口にした燿華という言葉に、ウイスキーグラスを手にしたミチオの指先が一瞬凍りつくよ
うに強ばった。驚いたミチオはアカネさんの横顔をじっと見つめた。
ふたりのあいだに長い沈黙が流れた。ミチオのまわりから音と光が消え去り、彼の心臓の鼓動
だけが遠い記憶を抉るように音を刻み始めていた。
「ぼくは死という絶望から甦ったのです。もう一度、ぼくはあなたのものになりたいのです」
陽炎のように浮かび上がったもうひとりのミチオは一言だけ小さく呟くと、音もなく煙のよう
に消えたのだった。
燿華…という言葉がアカネさんの顔と重なり、茫漠とした靄がすっと消え去り、あの人の顔が
くっきりとミチオの瞳の中にあらわれてくる。アカネさんはミチオの強い視線を避けるように
窓の外に視線を向けながら煙草を深く吸った。
ミチオとアカネさんのあいだに重苦しい沈黙が流れた。それはとても長い時間だった…。
彼女から漂ってくる懐かしい匂いがミチオの中に眠っていたものを揺り起こすようにゆっくり
と包み込んでいく。ミチオの中にぽっかり空いた失った記憶の部分に、彼女の顔が鮮やかに
甦ってきた。彼女の輪郭がくっきりと浮かび上がり、彼女の麗しい唇や指、肌の艶やかさ、
そしてあの頃の仕草が白日夢のようにミチオの脳裏に描かれていく。