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ヴィーナスの思惑
【SM 官能小説】

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ヴィーナスの思惑-16

ミチオは不意に我に返ったように、今の男を見たかい…と、店主のバーテンダーに言った。
「あなた方以外、店には誰もいらしてませんよ。もう、こんな時間にお客が入ってくることは
ありませんね。おまけにこの雨模様では」と言いながら、バーテンダーの男は穏やかな笑みを
見せた。ミチオは驚いてアカネさんを振り向いた。

「十五年前のあなたの亡霊だわ…。そして、あなたは、あの頃の自分でさえ憶えていない」
アカネさんはほとんど無意識にカクテルグラスを手にし、唇に運ぶことなくまたテーブルの上
に戻した。

「燿華…懐かしい名前だわ。でも、あなたにとってのヴィーナスっていったい何なのかしら」
アカネさんは燻るような笑みを浮かべながら言った。
「あなたは、私という《ヴィーナス》に捨てられたときに初めてほんとうの苦痛を知った。
奴隷は、奴隷でなくなったときに初めて苦痛を知るものだわ。それが《調教》の終焉なのよ」

アカネさんはそう言うとスツールからゆっくり立ち上がり、ミチオの頬を優しく撫でると店を
出て行った。


―――


エピローグ


ミチオは、あれからアカネさんとは会っていない。とても会いたい気がするが、会うのが怖い
ような気がするのも正直な気持ちだった。

久しぶりに訪れたカクテルバーの外では、あのときと同じように藍色の雨が降り続いていた、
雨が孕んだ微かな光が、闇を仄かに包み込んでいる。客はミチオのほかには誰もいなかった。
いつもの白髪のバーテンダーが店を閉める準備をしていた。

「そろそろ夜が明けますね。以前、ご一緒された素敵なお連れ様はどうされたのですか」と、
バーテンダーがグラスを片付けながら言った。

「彼女とどんなふうに会ったらいいのか、迷っているんだ…」とミチオは小さく呟いた。
「おやおや、恋悩みでございますか。うらやましいかぎりです。でも、あの女性には毒があり
ますね」彼はグラスを棚に置くと、急にミチオの前に歩み寄り、低い声で囁いた。

「毒って、どういうことなの」

「あの女性は男の欲望を嗅ぎ取るヴィーナスです。彼女の毒は、男の欲望を誘い出し、麻痺さ
せ、欲望を無慈悲に根こそぎ搾り取り、最後は男を敬虔で従順な子羊の屍に変えるものです」
バーテンダーは独り言のように呟き、遠い追憶に浸るように宙に目を向けた。

「あの方と出会ったのは、もう十七年ほど前でしょうか…」とバーテンダーは言った。

「ぼくが彼女と出会う前のことなんだ」
そう言ったミチオの顔を見ながら、バーテンダーの男は、蝶ネクタイを外し、ベストとシャツ
をおもむろに脱ぐと、裸の背中をミチオに見せた。病的なほど白く渇ききった肌には、薄く色
褪せた幾筋かの条痕が微かに見られた。

「それは…」とミチオは戸惑うように言った。
「鞭の痕でございますよ。歳をとると、皮膚だけが衰え、消えていた昔の条痕が最近になって
微かに浮き上がってきました。あなたがお連れしたあの方が手にした鞭の条痕です…」

ミチオは驚いてバーテンダーの男を見つめた。彼はおもむろにシャツをふたたび着ながら言った。


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