新しい君に-1
(1)
突然声をかけられたのは帰宅途中のことだ。歩いていると足早に女が追い抜き、すっと振り向くと俺の前に立ち止まった。
「すいません、あたし……」
言葉を切ってから、
「あなたを知ってから1年近くになります。心に積ったものがいっぱいになったので、聞いてください」
肩まで伸びた栗色の髪が柔らかく揺れた。体は細く、脚にフィットしたパンツ姿はモデルのようなスタイルだった。
さらに、
「ずっと心にあなたが棲みついているんです……」
人通りは少なかったものの往来である。いきなりのことで戸惑うばかりだった。
(人違いか?)
まず浮かび、
(キャッチセールス……)
俺は今年40になる。誰が見たっておっさんだ。着るものにも無頓着でたいてい会社のジャンパーで通勤している。配送の仕事をしていてかかわるのは現場ばかりだから身なりにうるさくないから髭だって剃らない日もある。
そんな俺に若い女が『告白』めいたことを言ってくる。疑念をもって当然だった。
「ごめんなさい……びっくりしたでしょう?」
微笑んでいるのは目もとでわかるが、大きなマスクをしているので表情まではわからない。
見た目の印象では20代後半、あるいは30前後といったところか。ほのかな香水が漂ってくる。いずれにしても生活に埋もれながら動き回っている俺には縁のない若さがあった。
「お話、聞いてくれますか?」
俺の警戒心が解け始めたのはじっと視線を逸らさず見つめるその目だった。まっすぐで、瞳が澄んでいると感じたのだ。薄暮の中だったがいかがわしい色は見えなかった。
どちらからともなくぶらぶらと歩きながら近くの公園のベンチに座った。
「俺、40になるんだよ」
「そのくらいかなって、思ってました」
女の齢を訊こうとして迷っていると、
「あたし、26です。いまバイトしながらヘルパーの資格とってるんです。介護の仕事、しようと思って。自分に合ってるかなって。何年かしたら介護福祉士の資格もほしいから勉強してます」
その後も、いままでいくつか仕事をしたがうまくいかなかった話、去年、長野の松本から出てきてここに住み始めたことなどを語った。
「それで……」
俺を見かけて、
「見守ってきた……」という。
切っ掛けを考えていた俺は肝心なことを訊いた。
「だけど、なんでまた……。『オジサン』だよ?」
「それは、フィーリングだから関係ないんです。なんか、温かさと深いものを感じるんです」
はっきり言ってからちょっと俯いた。
「あたし、気持ちをお話できただけでいいんです。お付き合いしてほしいなんて厚かましいことは考えていませんから。聞いてもらえただけで心の重さがとれた感じです」
からかっているのかと思った。好意を持っていると言っていながら付き合うつもりはないような口ぶりである。
「厚かましいって、何だか意味がわからないな……」
やや不快感を表したかもしれない。
女はしばらく黙った後、
「貴重なお時間頂いて、すいません。自分勝手でした。あたし、一番大事なこと、お話していません……」
そして語ったのは、『男』だということだった。
「男?……」
戸籍上、性別は男。
「でも、あたし、女なんです……」
驚いた。微妙な違和感がなかったわけではない。声質がやや太く、低い。そして着ているパーカーの胸の膨らみがない。細い体とはいえ腰の形がすっきりしすぎている。……
しかし最初からそれほど仔細に観察したわけではなく、『男』と知って思い及んだことだった。
『三上純也』……
名乗ってから伏せていた顔を上げて俺に目を向けた。
「初めに言わなきゃいけないのに……」
驚いた割には俺の気持ちは壊れなかった。
(性同一性障害ってやつか……)
身近に接したのは初めてであった。おかまバーに行ったことはあるが、その違いは何なのかわからない。
しかし、黙っていれば男と思う者はいないだろう。華奢な体だからなおさらだ。
(女……)と言っているが、実際、どんなものなのか。
(未知の世界……)
気持ちが蠢いたのはそこであった。
「退いちゃいますか?ふつうはそうでしょうけど……」
「いや、そんなことはないけど……」
拒絶は見せずにむしろ好意的に笑って、
「最近はだいぶ認知されてきてるし……」
近くのマンションで一人暮らしをしているという。
「1DKの小さいところ。……」
口を噤んで忙しなく動く目は何か言い淀んでいると感じた。
「行ってもいい?」
「よかったら……」
照れたように首をかしげた。
「俺、上条……」
「上条さん……素敵な名前」
俺は小さく噴き出した。