歪曲-3
トントン、と階段を下りてくる足音が聞こえ、ミナは慌てて引き戸を閉めた。
「おまた……せ……」
チカは、リビングに入るなり、引き戸の前に立っているミナを見て、ひと目で気付いたようだった。
「ミナ、そっちの部屋、見ちゃったの?……」
首をすくめるようにして、恐る恐る振り返ったミナは、顔を青ざめさせていた。
「バカね、なんで勝手に覗いたりしたの?」
気の毒そうな目を向けていた。
学校での黒装束のような服装とは違って、チカは、華やかなフリルの付いた白のキャミソールに着替えていた。
「もう、しょうがない子なんだから」
娘を叱るような口調だった。
しかし、その声音にはミナを心底心配するような韻が含まれていた。
やわらかそうなスカートのすそを揺らしながら近づいてきたチカは、震えるミナを横目で眺めると、ふぅ、と短い溜め息を吐いた。
「見ちゃったんなら、仕方ないか……」
誰にいうともなしに、つぶやいた。
引き戸の取っ手に手をかけ、一瞬、躊躇うような素振りをみせたが、すぐにあきらめたような顔になると、バン!バン!と扉を一気に横に滑らせた。
開け放たれた引き戸の向こう側にあったもの。
10畳ほどの広さの部屋に、幾本もの鎖が天井からぶら下がっていた。
天井には太い梁が横に走り、そこには赤くて長い縄も巻き付けられている。
縄は、床にまで届いて、とぐろを巻いていた。
床には、薄い布団のような赤いマットが敷き詰められ、部屋のほとんどを埋め尽くしていた。
マットを避けるように部屋の中央あたりには、木馬に似た丸太が置かれてあり、さらにその奥には、X型に組まれた木組みが壁に立てかけてある。
横の壁には、丸められた黒い鞭や束になった縄が幾つも掛けられていて、それがひとに害を与える道具であることはミナにもわかった。
なにより恐ろしかったのは、壁の一角にナイフが飾られていたことだ。
大小様々な長さの違うナイフが壁に整然と並べられてあり、それは他者を威嚇するように鈍い銀色の光を放っていた。
見て、ミナは息を呑んだ。
部屋の入り口付近には、三脚に据えられたビデオカメラも置かれてある。
それがなにを意味するかなど、ミナにはわかるはずもなかったが、そこが、ひとに対してよからぬことをする場所であることだけは、幼い頭でも認識できた。
「ここが、なにするところか……わかる?」
ミナの疑問に答えるかのように、チカが扉の向こうを見つめながら訊いた。
向ける瞳に光はなかった。
ミナは、その部屋を見たくないかのようにうつむいた。
声も出せないほどに震えていた。
うつむきながら首を激しく左右に振った。
そんなものは知らない、そんなものは見たくないと、精一杯に身体を使って訴えた。
おどろおどろしさに満ちた部屋など、正視に耐えるわけがなかった。
チカは、そんなミナを見て、またもや短い溜め息を吐くと、不気味な部屋に目を戻した。
しばらく、ぼんやりと考え込むようにしていたが、やがて薄い唇を開くと、ぽつりとつぶやいた。
「最初は、ママだったんだ……」
悲しげな声だった。
「え?……」
「あたしね……まだ赤ちゃんの頃から、この部屋でママのこと見てたんだよ……」
遠くを懐かしむような目で、部屋のなかを眺めていた。
「ずっとここで、ママのこと見てたの……。ママもね、チカ、チカって……わたしの名前たくさん呼んでくれてた……。チカ見て、ママを見て、ってね……。だからわたしは、ずっとママのことを見てたの……。でもね、5歳の時にママいなくなっちゃった……。最後に見たのは、いつだったかな?……。もう、忘れちゃった……。」
チカは笑っていた。
自虐的な笑みだった。
「最後に見たときはね、たくさんの男のひとがママに群がってた。ママ、売られたんだって。パパがいってた。」
まるで他人事のような口ぶりだった。
「そのときもね、わたしはママのこと見てたんだよ。でもね、ママ、いってくれなかったんだ……。いつもみたいに、チカ見て、ママを見てって、いってくれなかったんだ……」
チカは、悔しさを押し殺すように唇を噛んだ。
「代わりに、なんていったと思う?……」
視線は、ミナに向けられていた。
ミナは、顔をうつむかせていた。
両手で、耳を塞いでいた。
チカが、なにをいっているのか、わからない。
どうして母親が売られたりするのか、ミナには理解できない。
「聞いてよミナ……頼むからさ……」
チカは、すがるような瞳をミナに向けていた。
背中を丸めて閉じこもろうとするミナに、どうしても話を聞いてもらいたいと願う顔だった。