拾誘翅-6
早喜の皮膚は死んだ母の血……佐助が殺された時「おのれ山楝蛇め!」と怨嗟の念を帯びた千夜の血……、それに塗(まみ)れたことがあるゆえに、いつの間にか毒血への耐性が出来ていたのであろう。
山楝蛇のお婆はついに絶命し、高坂八魔多もなき今、家康を陰で守るべき伊賀者の力は大いに衰えた。
徳川家康は大坂夏の陣の翌年四月に死去したが、その死因については二つほど説がある。
「鯛の天麩羅を召した折の食中毒」、「胃の悪性腫瘍(癌)」、というものだ。
しかし、これは幕府がおおやけに知らしめたもの。公儀の内部では密かに語られ、他言無用となっている話があった。
弥生の春霞たなびく夜、家康の寝所に一人の女人(にょにん)が入るのを近習が認めた。
ちらりと見えた顔はじつに愛らしく、『七十五という齢(よわい)でありながら大御所様も大したものじゃ』と、家康が内々に呼びつけた夜伽(よとぎ)の娘だと側仕えは思った。
が、翌日。朝になっても家康が起きてくる気配がない。不審に思った近習が寝所の襖(ふすま)を開けると、女の姿は煙のように掻き消えており、豪奢な布団の上、裸でぐったりしている家康の姿があった。慌てて手首を取ると脈がなかった。首には紐で締められた跡があり、絞殺されたことは明らかだった。
だが、体温を失った裸体の股間では、しなびた男根に薄い精液を漏らした跡があり、死に顔には苦悶とは裏腹の、えも言われぬ至福、という、春の季節にふさわしい表情が浮かんでいたという。
この、近習が見た女が、傀儡女の生き残り、春伽早喜であったかどうかは定かではない。しかし、寝所の片隅に落ちていた紐を調べると、それが真田紐であるということが分かった。しかも、紐の端には、六文銭の意匠を施した兜の前立が、しっかりとくくり付けられていたという……。
江戸時代中期の随筆「翁草」には、幸村のことを称賛する次の言葉がある。
「当世の英雄真田をあらずして誰ぞや、絶等離倫(ぜつらりりん)、一世の人物、今にいたりても女も童もその名を聞きてその美を知る……」
大坂の陣を生き延びた早喜の末裔が「翁草」のこの文章を目にした時、余人には感じられぬ、深い思いが込み上げたに違いない。
(終わり)