『ティースプーンの天秤』-6
ちがう。
僕は耐え切れずに兄の背中を突き飛ばした。
兄の手が僕の右腕を掴もうとする。でも兄の手は僕の腕を撫でるように滑っていき、結局は海の中に落ちた。
いつの間にか、19歳の僕はいなくなっていることに気付く。代わりに21歳の僕がいる。
ただ、21歳の僕だけがそこに一人で立っていた。世界の色はいつの間にか赤に変わっていた。
目が覚めたとき、まず静かな音楽が耳に入ってきた。寝起きで無防備だったのか、悪い夢の後の安心感からか、その音色は僕の深いところにまでスルリと進入してきた。それでここがサトウの部屋だということが分かった。
その日は九月だったけど、サトウの部屋は冷房が20度に設定してあった。それなのに、僕は全身にうっすらと汗をかいていた。
「随分楽しい夢をみていたようだけど。」
サトウの声が聞こえた。
「うなされてた?」
「まあ、そこそこにね。」
僕が起き上がると、サトウは僕の前にコーヒーを置いた。ありがとう、と僕は言って一口飲んだ。しっかりと現実の味がした。
「兄の夢をみたんだ。」
僕は言った。
「へえ、兄貴なんて居たんだ。」
「2年前までね。」
へえ、とサトウは言った。
「聞きたい?」
「何が?」
「兄貴のこと。」
僕は言った。
「言いたい?」
サトウは言った。やっぱり、部屋に満ちている音楽のような声で。
一拍間を置いて、僕は頷いた。
僕がひとしきり話してしまうのを、サトウは適当に頷きつつ聞いた。サトウの相槌は的確で、僕は自分で思ったよりも要領よく話してしまうことが出来た。
僕の話が終わり、そしてしかるべき長さの沈黙をそこに置いた後、サトウは言った。
「俺はさ、小説家になりたいと思っているんだ。」
確信に満ちた声だった。それは漠然とした未来のことというよりは、既にしっかりと踏み固められた事実について言っているような声だ。
「うん、サトウならなれるんじゃないかな。結構成功すると思うよ。」
それは間違いないと思った。サトウは小説家として近い将来成功する、それは確かな予感だった。
そのサトウは続けて言った。
「君もなにか小説を書いてみるといい。」
「僕が?無理だよ。本を読むのは好きだけど、自分で書くとなるとまるで自信は無い。とても小説家になんてなれない。」
「なにも小説家になることなんてないさ。ただ書くだけでいい。おもしろい物語である必要だって無い。」
「まあ、そういうことなら、書いてみるのもいいかもしれない。でもどうして小説を書くことなんて薦める?」
大体、話の脈絡が不自然だった。僕の兄の話から小説の話だ。
「書いてみれば分かるさ。文章を書くとね、いろいろなことが分かる。」
「たとえば?」
「自分はほとんどのことを知らないということ。」
そう言ってサトウはコーヒーを飲み干し、自分のカップを空にした。
カラン、とティースプーンが音を立てる。
「知らないということを知る、か。そして知らないことを知るようになる。そういうこと?」
「いいや、違う。ただ知らないということを自覚するだけさ。自分自身の中身が増えるわけでも、もちろん減るわけでもない。ただ認識として変わる、ということ。」
「難しいな。」
本当によく分からなかった。サトウの話も、何故サトウがこの話を持ち出したのかも。