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『ティースプーンの天秤』
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『ティースプーンの天秤』-7

「じきに分かるさ。いくつか文章を書いてみればね。」
サトウが何故僕に小説を書くことを薦めたのか、こうしてこの文章を書いている今、それをよく理解することができる。そして文章を書くことで自分がどのように変わっていくかということも。
「でもさ。」
そのようなことになるとは思っていない21歳の僕は言った。
「どんなことを小説に書いたらいいかが分からない。君が知っているように、僕はどちらかというと活動的な人間じゃないし、特殊な人生を送ってきているわけでもない。」
「なんだっていいさ。例えばね…」
そう言ってサトウはティースプーンをカップの『ふち』に注意深く乗せた。
ティースプーンはカップのふちの一点を支えに、バランスよく水平に浮いた。ちょうど天秤のように。そしてテーブルを揺らさないよう注意しながら
「すごいだろ、なかなかこう簡単にはいかない。」
と言った。うん、と僕は頷いた。
そしてサトウは空中に水平に静止しているティースプーンを指差して言った。
「俺だったらこれについて小説を書く。」
「これって、このスプーンについて?」
「そう。だってこれは人生を表している。」
そう言って、どんなところがだと思う?というような視線を僕によこした。
「かろうじてだが、落ちずにバランスをとっている、ということ?」
僕のその答えはサトウを60パーセントくらい満足させるものだったらしい。
「それもある。」
「他には?」
「カップの内側に浮いている一方と、カップの外側に浮いているもう一方、その両端が同じ形には出来ていないということ。」
ますます分からない。
「もっと抽象的になった気がする。」
僕は言った。
「そりゃそうさ、これは抽象についての話だからね。」
なおも分からないという表情を浮かべる僕に、サトウはこう言った。
「いいかい、この世の中にある全てのものは、必ず同時に他の何かなんだ。」
「抽象。」
僕は言った
「そう。そのことを手がかりに世界を理解しようとすることができるし、多くのことをきっと理解できる。その手段が、考えるということ、そして書くということだ。」

サトウの話はそれで全てだった。

今ならそのときの話を大体は理解できる。
そしてあのティースプーンを通してサトウの言いたかったことも。それは、
「何かを得る時には、必ず等しく何かを失っている。」
そのサトウの言葉の、もう半分の意味を補ったものであり、そしてやはり僕への慰めだったのだ。

大学を卒業してからはもう、サトウと会うこともほとんど無くなった。
結局サトウは作家になり、僕はその著作をほぼ全て読んだ。そのうちのいくつかには、手紙や電話で本人に感想を伝えたりもした。ほとんど短編小説しか読まなかったサトウだが、以外にも彼の著作は中編から長編が多かった。短編集はたった一冊出ただけだ。でもやはり僕はその短編集が一番気に入った。他の長編にはハッピーエンドはあまり見られなかったけど、その短編集に収録された短編の多くはハッピーエンドだった。
後で聞いた話によると、その短編集のうちの一つには、なんと僕に向けられたものがあるらしい。それだけでなく、その短編集に収録された作品はすべて誰かに向けられたものだった。サトウによれば、短編をそれしか書いていないのは、もうそれ以上に作品を捧げるべき人間がいないから、らしい。
「友達が少ないからね。」
電話の向こうで自嘲気味にサトウはそう言った。

僕に向けられた物語がどれかというのはすぐに分かった。
『ティースプーンの天秤』
それがその小説の題名だった。


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