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真田拾誘翅(さなだじゅうゆうし)
【歴史物 官能小説】

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拾壱-2

 幸村主従は南の八丁目口より入城したが、すぐに三の丸というわけではなく、惣構え(城の外郭)の中を三町ほど歩かなければならなかった。驚いたことにそこには商いの店がけっこうあり、これから建てようという商家もかなりあった。

「前もって潜ませていた才蔵からの報告には、商人がいくらか店を構えているとはあったが、よもやこれほどとはのう」

立ち止まり、顎に手を置く幸村に海野六郎が近づき囁いた。

「おなご衆は三の丸より内には入れませぬ。この惣構えに千夜たちが住まうことになるのでしたら、商いをさせてみてはいかがかと存じまする」

「傀儡一座の興行でもさせるのか?」

「戦で気が逸っている男どもに人形の芸もないでしょう。ここは、娼家を建ててみてはいかがかと……」

「なるほど、傀儡女たちにはうってつけではあるな。戦で高ぶる男はあちらのほうも高ぶるもの。繁盛間違いなし。……それに、これはという男へ寝物語で真田の古(いにしえ)の活躍を聞かせれば、我らのために奮起する者も出てくるであろうしのう」

「城内には徳川方より送り込まれる者もかなりいるはず。妖しい奴原(やつばら)は密かに寝首を搔かせましょう。手練れの間者とて房事の後ではいささか気が緩んでいるはず」

「決まりじゃな。あとで千夜に指図しよう。……さあて、大坂城を取り仕切る譜代の面々に到着の挨拶を言上するとしようかのう」

幸村は背筋を正すと、三の丸の門に向けて歩きだした。


 家康は十月十一日、二十万余の軍勢を引き連れて駿府を出立した。
 それに先だって高坂八魔多の配下、伊賀者は牢人、商人などに姿を変え、大坂城に多数入り込んでいた。

「小太郎、おまえはまだ城に潜り込まぬのか?」

八魔多に聞かれ、風魔小太郎は少々渋い顔をした。

「狐狸婆に、ちょいと用事を頼まれた」

「用事だと?」

「淀殿の叔父である織田有楽斎への土産を手に入れてから大坂城へ忍び込む」

「土産とは、おおかた茶器であろう」

「よくお分かりで。茶器は茶器でも、滅多に手に入れることの出来ない唐物茶入。そいつを、さる大名の屋敷からくすねて、大坂城の有楽斎へ献上するのさ」

「長益(有楽斎の本名)は茶人気取りの数寄者だからな。喜ぶだろう。そして、徳川に良いように取り計らってくれるだろうよ」

織田長益は織田信長の弟で、本能寺の変の後、豊臣秀吉に仕えたが関ヶ原の役では東軍につき、その後は徳川方と密かに連絡を取りながら秀頼の補佐にあたっていた。

「しかし八魔多の大将。すでに知っているだろうが、大坂城に真田が入ったようで……」

「ああ。九度山に蟄居させられていた頃より目を光らせていたが、送り込む伊賀者のほとんどが闇に葬られた。無事に帰ってきた者も、こちらの内情を聞き出されていたふしがある。……真田昌幸は謀将として知られていたが、その息子、幸村も侮れぬ存在かもしれぬ。今度の戦、徳川が勝つのは目に見えておるが、豊臣を丸呑みする際、喉に刺さる小骨となるようであれば、わしが真田を取り除いてやらねばなるまいて」

「なにもべつに八魔多の大将が動かずとも……」

「いいや。かつて狐狸婆が言っていた。八卦によれば、真田が家康の首をとる恐れ無きにしも非ず、とな」

「まさか」

小太郎は一笑に付したが、いつぞや、お龍の道場で戦った相手が真田の忍びだとすれば、かなりの手練れであった。そういう配下を持つ幸村という将も、あながち侮れぬのかもしれぬと、指でこめかみを軽く搔いた。


 幸村が大坂城、本丸の広間にて、豊臣秀頼とその生母淀殿に謁見したのは十月二十三日。駿府を発った家康が京の二条城に入り、秀忠軍六万の兵が、江戸を出発した頃だった。
 二十二歳の秀頼は堂々とした体躯で聡明そうな容貌であったが、目に覇気は感じられなかった。代わりに強い目力を放っていたのが淀殿であった。若い頃はさぞかし美しかったであろう容(かんばせ)はくたびれてきていたが、気丈さで小皺の溝を浅く保っている、という印象だった。
 秀頼は一言も発せず、淀殿が広間に居並ぶ諸将へ「こたびの入城、大儀である」と声を掛けたが、尊大を絵に描いたような態度であり、とても「この方のために命を懸けて戦おう」という気は起こらなかった。

『まあ、わしが大坂城に入ったのは家康の首をとることが第一義。豊家の存続は二の次じゃ』

幸村は目を伏せながら拝謁の儀式を遣り過ごした。秀頼と淀殿が広間を後にすると、引き続き戦評定が始まった。
 幸村の隣に座った主な者は次の面々であった。
 黒田家の重臣であったが当主長政と反りが合わず出奔したあげく浪々の身となっていた後藤基次(又兵衛)。
 土佐十万石の当主であったが関ヶ原の役で西軍に属したため領国没収の憂き目に遭った長宗我部盛親。
 他にも毛利勝永、明石全登がおり、彼らは後に大坂城五人衆と呼ばれることになった。

 幸村は評定に於いて次のように具申した。
「秀頼君にご出馬いただき、まず気勢を上げる。伏見城を落とし、京を支配し宇治橋を打ち壊し、琵琶湖南の要衝である瀬田の唐橋をも破却して徳川方の西進を食い止める。そうして数に勝る敵と互角の戦をしているうちに西国の豊臣恩顧の大名が味方となってくれるでしょう」


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