陸-2
観衆に混じっていた早喜は、お国が志を遂げずに舞台裏へ消えた様子を、無念と、わずかな安堵の入り混じる複雑な思いで眺めていた。が、客席のほうでにわかに歓声が上がったので目を転じると、家康が人混みの中から進み出て、舞台裏に向け何やら手招きしていた。どうやら、座長に手ずから褒美を与えようということらしい。ややあって、幕臣に促され、お国が大御所の前に進み出てきた。顔を伏せているので表情は分からない。だが、わずかに肩が震えているように見えた。
「こ、これは……!」
早喜は咄嗟にお国の心を察し、人混みを掻き分け疾駆した。
家康の前でお国が平伏する。許しを得て顔を上げる。次の瞬間、懐刀に手をかけたお国の身体が躍り上がる。刃が家康の喉笛を斬り裂く……。この様を早喜の目は捉えようとした。だが、紫電の速さでお国の前に割り込んだ者があった。巨軀だった。ごつい拳が懐刀を打ち落とし、返す腕(かいな)でお国の鳩尾(みぞおち)を強打した。くの字に折れるお国の身体。それを素早く肩に担ぎ上げると、家康を救った大男は身を翻し韋駄天走り。あっという間にお国もろともその場から姿を消した。これが瞬きを二つするかしないかの間に展開されたので、ほとんどの者は何が起きたのか分からなかった。早喜が餓狼のごとく謎の男を追いかけたのも、家康が幕臣によって速やかに十重二十重に囲まれたのも、大男の配下と思われる者どもが舞台裏に殺到したのも、目にはしていながら群衆は呆気にとられていた。
大男はお国を担ぎながら三之御門を潜り抜け、下乗橋を駆け抜け、大手門から城外へ出ようとしていた。そこへ早喜が疾風と化して肉迫する。と、その時、横から激しい体当たりをくらった。軽い身体は弾き飛ばされ、衝撃で一瞬めまいがした。が、すぐに体勢を立て直そうとするところを、今度は首の後ろを殴打され昏倒してしまった。
早喜に馬乗りになり押さえ込んだのは風魔小太郎だった。大手門のところで立ち止まり、振り向いて哄笑したのが伊賀者の頭領、高坂八魔多。彼は小太郎に向かってうなずくと、悠々と大股で歩き、気絶したお国を担いだまま門外へと姿を消した。
早喜の意識が回復した時、目に映ったのは壁に掛かった数本の薙刀だった。刃は付いておらず稽古用のものだった。どこかの道場だろうか……。よろりと半身を起こす。
首を回すと、隣に宇乃の姿があったのでギョッとした。彼女は後ろ手に縛られて気絶していた。どうしたんだと腕を伸ばそうとしたが動かなかった。早喜も同じく縛られていたのだ。見ると、宇乃の向こうにも縄を打たれた娘たち……お国一座の踊り子たちがいた。もっと向こうには海野六郎が最も厳重に縛られて意識を失っていた。衣が破れ、顔から血を流している。
『一座の者みんな捕まってしまったのか。そして、わたしも……』
唇を噛む早喜の耳にバシッという音とともに女の短い叫びが聞こえた。隣室からだった。肉を打つ音と叫び声はまた聞こえ、「どうしたあ、さっさと吐け!」という男の怒号も聞こえた。すると、別の太い声がして何やら会話していたようだが、やがて、身の丈六尺もあろうかという大男が、倒れた女の髪を握り、引きずりながらこちらの部屋へ入ってきた。女はお国だった。高手小手に縛られている。衣の背中が大きく破れ、赤い痣が数カ所見えた。その後を悪相の男が稽古用薙刀を持って付いてくる。
「小太郎、分かっただろう? 女は男よりも痛みには強いんだ。そいつで」大男が木製薙刀を指さしながら言った。「いくらぶっ叩いても、口を割らぬ女は最後まで割らぬものだ」
「やっぱり、まぐわいで蕩(とろ)けさして、自分を失っているところで素性をあばくのが一番。そういうことだね? 八魔多の大将」
「今夜は身体が疼いているから、俺様が直々にこの女の相手をしてやる。だが、火照らすのが面倒だ。小太郎、おまえがまず遊んで、気分を高めてやりな」
「それはかたじけねえ。ところで、褥(しとね)は一枚にするかい? それとも二枚?」
「そうだなあ、下はむき出しの床だから三枚にしよう」
「あと、お婆の薬は使うかい?」
「狐狸婆の淫薬か。……いや、やめておこう。おまえと俺様の二人掛かりで責めるんだ。薬など要らぬだろう」
「それもそうだな」
小太郎は悪人面(づら)を笑いでゆがめると褥を取りに行こうとし、部屋を出る前に、きつい視線を送っている早喜に気づき、顔をヌッと近づけた。
「嬢ちゃんよう、駆けっこが速いねえ。おじさんたまげたよ。でも、大人に比べればまだまだだね。……あ、俺がどれくらい大人かってのを後で見せてやるぜ」
笑いながら早喜の頬を長い舌でひと舐めしてから、小太郎は部屋を出た。
高坂八魔多は壁際の床几にどっかと腰をおろし、ふんぞり返っていた。そこへ、大きな徳利と盃の載った盆を持ったお龍が現れ、八魔多の前に差し出したが、彼は徳利をひったくるとそのまま口を付けて酒を呷った。