弐-1
慶長八(1603)年。真田昌幸・幸村父子が紀州に配流になってから三年の月日が流れた。
九度山の里には粗末な茅屋が数十軒あったが、真田昌幸とその息子、幸村は別々に屋敷を建てて住んでいた。昌幸の住まいのわきには大きめの小屋があり、そこで、三人の女と、十人の少女が手作業をしていた。
「これ、早喜。わき見などせず、手を動かしなされ」
叱った声の主は石川数正のもとを去り、九度山に戻っていた千夜だった。今は二人の三十路女を従え、作業の元締めを担っていた。その作業とは紐(ひも)を作ることだった。
紐には名があり「真田紐」……(幅狭く織った絹や木綿の丈夫な紐で、刀の下げ緒や鎧兜着用時の紐として用いる。現代でも茶道具の桐箱の紐や、帯締め・帯留用の紐、バッグの持ち手に使用するなど用途は広い)
少女たちは板の間に敷いた御座の上で紐作りに励んでいたが、座るのではなくしゃがんでいた。なぜかというと足腰を鍛えるためであった。早喜をはじめ九度山の少女たちは今、忍びの者として修行中だった。ゆくゆくは傀儡女(くぐつめ)として色香を用いた仕事も覚えるが、胸は平らで尻も貧相なうちは、身体を強くするのが日課だった。
「忍びの修行は佐助兄様がやってるからいいと思うの」早喜は小声でぶつぶつ言う。「今では猿飛佐助という通り名もあって、いっぱしの忍びになったんだから、なにもあたいまで……」
隣で沙笑も同意する。
「そうだよ。あたしの兄、才蔵も霧隠才蔵とか大層な名を語り始めた。忍びの仕事は兄に任せて、あたしは綺麗なべべ着て遊び歩きたいなあ」
すると、久乃が紐を組む手を休めずに注意した。
「あなたたち、真田の子でしょう。今は郎党もちりぢりとなり、わずかな配下で大殿や佐(すけ)の殿にお仕えしておるが、いつの日かお家はまた盛り返しましょう。いいえ、盛り返さなければならぬのです。そのために励みなされ」
ここで久乃が口にした「佐の殿」とは幸村のことである。豊臣秀吉に仕えていた若き頃、左衛門佐(さえもんのすけ)の官位を頂いたので真田左衛門佐。ゆえに家臣は皆「佐の殿」と呼んでいた。
「まーた久乃姉(ねえ)のお小言……。二つばかり年かさじゃからといって、偉そうに、ポンポン言わないでもらいたいのお」
「こらっ、沙笑。おぬし、組み打ちの体裁きは十人の中で一番じゃが、減らず口をたたくのも一番じゃの」
「久乃姉は大殿に取り入るのが一番」
「なんじゃと?」
激しい言い合いが始まった。そこへ、
「おお。今日も賑やかじゃのう」
小屋の入り口でのどかな声がした。三十代半ば、背はさほど高くない。柔和な顔、穏やかな目元。しかし、その瞳の奥、見る者が見れば、胸底に潜む熱き想いを感得できたであろう。
「あ、佐の殿」
千夜をはじめ、小屋の皆が床に手をつかえ、面を伏せた。
「千夜、紐のこしらえはどうじゃ、はかどっておるか?」
幸村に聞かれ、千夜は首肯した。
「おぬしたちのこしらえる紐。これを諸国で売り歩くと評判がよく、けっこうな稼ぎとなるのじゃ。兄者からの仕送りもあるが、いざという時のために金を蓄えておかねばの……」
ここで幸村の口から「兄者」という言葉が出たが、彼には一つ違いの信幸(のちに改名して信之)という兄がおり、以前は共に暮らしていたが、関ヶ原の戦の折、父昌幸と幸村は西軍につき、兄が東軍についたため、袂をわかつこととなった。信幸は家康から領地を与えられ、昌幸・幸村父子は死罪を命じられたが、その時、助命嘆願した者の一人がこの信幸である。
「ところで千夜、女童たちに紐をこしらえさせるのもよいが、鍛錬のほうはどうなっておる?」
「大人に比べれば、さながら腕萎え足萎えのごとし」
「それはまた手厳しい言葉。こやつらはまだ七、八歳であろうに……」
「しかれども……」
「まあよい。……どうれ、しゃがんで紐ばかりいじっていては身体が凝るであろう。わしが槍の稽古をしてやる」
「佐の殿がじきじきに?」
「本当は我が息子、大助を鍛えてやりたいのだが、いかんせん、まだ一歳だからな……。さあ、皆の者、表へ出よ」
この幸村、物腰は柔らかいが、そのじつ、槍の腕前はかなりのものだった。少女たちは歓声を上げ、我先にと外へ駆けだした。槍の稽古といっても棒を持たせるのだが、幸村は時折、気まぐれに少女たちの繰り出す棒を竹竿であしらってやることがあった。