〜 水曜日・窒息 〜-2
「ここで呼吸を止め、肺と気道で存分に酸素の飢(かつ)えを味わいなさい。 もし限界を超えて、意識を失っても問題ありません。 保健委員は介抱に長けていますから、人工呼吸も心臓マッサージもお手の物です。 仮死10分以内であれば、9割以上の確率で蘇生可能ですので、遠慮なく呼吸の限界を越えましょう」
「「……」」
絶句。 もはや抗議の言葉すら思い浮かばなかった。
限界を超える、それはつまり『窒息しろ』ということか? 何? 仮死? 意識を失うまで息を止めろなどと、教官は正気で言っているの? そもそも9割の確率で蘇生するなら、残りの1割はどうなるというの??
グルグルと無軌道に回る思考の渦。 隣を伺うと、21番は呆けたまま固まっており、23番はガタガタと見た目にも明らかに震えている。 覚悟を決めた表情なんて誰一人いない。 それでも、教官が私たちに思考を整理する猶予をくれるはずはなかった。
「最初は2分。 私が手を叩いたら、よしというまで浮かんではいけません。 わかりましたか」
「「ハイ! インチツの奥で理解します!!」」
返事を求められた時は、何をおいてもまず返事だ。 大声で、半ばヤケクソになって、応答だけはキッチリこなす。
「いきますよ。 せえの――」
「うぅ……っ、なんでこんな、すぅぅ――!」
心の準備ができないまま、手を広げた教官にあわせ、私は思いきり息を吸い込んだ。
パアン。
「……っ!」
バシャッ、ザブ、パシャッ、ザブン。
2分だったら耐えられる。 私は幼年学校時代、水泳部に所属していた。 左程速い方ではなかったけれど、肺活量は人並み以上に鍛えてきた。 潜水で25メートルは楽に泳げるし、2分くらいなら我慢してみせる!
「……」
吸い込んだ酸素を逃さぬよう、鼻を摘まんで泡を留める。 肺を拡張しすぎて咽ないよう、適度に息を口内に戻す。 後は酸素の消費量を抑えるため、ただただ静かに時間が過ぎるのを待つだけだ。
「……」
体内時計で30秒を過ぎるまでは、全くどうということはない。 拍子抜けするくらい、辛いとも別段感じない。 ところが30秒を過ぎると、急に胸の奥が熱くなる。 酸素を貪り尽くした肺胞が異変を感じ、熱は喉までせりあがってくる。 45秒は経っただろうか、熱は痛みに置き換わり、気道全体がビクビク震える。 理性で呼吸を抑えてみても、身体の要求が烈しさを増すばかり。 すぐにでも新鮮な空気を頬張りたい欲求が思考を埋め尽くす。
苦しい、あと少しだけ我慢、苦しい、もうちょっとの辛抱、でも苦しい、すごく苦しい。
まだ2分経たないの? もうたっぷり我慢した。 頭の中で数えた数字は、たったの120どころじゃなく、とうに200に達している。 もしかして、私が合図を聞き逃したのだろうか? いや、ちゃんと水面から耳だけ出して、音には注意を払ってきた。 他の生徒も静かそのもので、聞き逃すような喧噪とは無縁だ。 聞き逃したわけがない。 ということは、2分といいながらずっと合図しないつもりだろうか? 実は2分なんてとっくに経過しているのに、私たちを長く苦しめるために教えてくれない可能性は……十分にありえる。
ドッ、ドッ、ドッ。 いつしか早鐘をうつ心臓の鼓動。
マズイ、息がもたない、ヤバイ、身体が言うことをきかない、でも我慢しなくちゃ、でも無理だよもう、ああ駄目だ、苦しい、苦しい、苦しい苦しい苦しい苦しい――!
パアン。
白くなりかけた脳裏に、焦がれた隻手の音声が届く。 叶うなら最初に息を継ぐ役は他のクラスメイトに渡したかったけれど、もう形振(なりふ)り構っていられない。
「ぷへあっ……! ぜえっ、ぜえっ、ぜはっ……!」
水面から顔をあげ、上半身全部を使って空気を吸う。 一息すうたび、悲鳴をあげた肉体に理性が行き渡ってゆく。 火照った身体はたちまち平静を取り戻し、息をするたび脳が喜悦に震える。
ふと思う。 今の私は『辛さ』よりも『幸せ』を確かに感じている。 本当の幸せが一かけらも存在しないのに、つい頬が緩んでいる。 ただ新鮮な息で身体を充たす、それだけでこんなにも安心し、幸せな気分になれるなんて、私はどこまで安っぽいのか。 ほんの短い期間で、私の価値は信じられないくらい低い所まで落ちてしまった。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
「8名不合格。 3番、8番、15番、16番、17番、29番、31番、33番を繋留しなさい」
「「はい。 了解致しました」」
少しずつ息を整える私達の頭上。 2号教官が呟き、保健委員の先輩方が呼応する。 視線だけ持ち上げてプールサイドを見ると、先輩方も丈が短いブラウス一式を脱ぎ去ろうとする。 動作には無駄も躊躇いもなるでなく、あっという間に全裸になる。 プールサイドからチャプン、プールに入った保健委員の先輩方は、一様に黒い鎖を握っていた。
……。
教官が許可をだす以前に息継ぎをした生徒の首輪に、保健委員の手で黒い鎖の一方が繋がれる。 鎖のもう一方はプールの底にある『突起状ローラー』に取りつけられる。 底のローラーは無線で鎖を巻き取れるようになっており、教官がもつコントローラーで長さを自在に変えられる仕組み。 すなわち教官が鎖を巻き取った間は、生徒は水中で息を止め続けざるを得ない。
8人が鎖に繋がれてから、私たちはもう一度プールに潜った。 時間はさっきよりも長い『3分』だ。 教官がパンと手を叩いた直後、急激なモーター音とともに数人がプールに呑み込まれる。 あの勢いで引っ張られて、無事に息を吸えただろうか――そんなことを考えながら、私も水面に続いた。