雨傘-9
不思議な気持ちだった。
ふわふわしたような、掴みどころのない感じ。嬉しいけど何かが不安な、まるでクリスマスに雪が積もった道を歩くときのような気持ち。
恋愛のスタートはいつだって少しぎこちない。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら、わたしはこれからの楽しみを思った。
終わった恋愛のことはもう忘れよう。
言われたことも、されたことも、もう思い出す必要もない。
わたしは小さく深呼吸をすると、CDをとめてシャワーを浴びに浴室へ向かった。
***
「今度の土曜日に、沙保さんの友達のお店に連れて行ってほしいなあ」
「いいよ、行こう!」
「やったー!」
ヒロキくんの天使の笑顔が電話越しにもハッキリと思い描くことができる。
あの日以来、わたしたちは毎晩寝る前の電話を欠かさない。
ヒロキくんが珈琲を飲みに寄った日でさえ、寝る前の電話がない日はなかった。
「雨、止むかなぁ」
「明日も予報では雨だったよね。土曜日は大丈夫だといいんだけど」
このところ雨の日が多く、空気が重く感じられる。
垂れ込めた灰色の雲も、乾かない洗濯物も憂鬱でしかない。
雨の降る前は決まって左のこめかみあたりが痛むのもつらい。
締め付けられるような、ギリギリとした痛み。
昔は雨が好きだった。
運動場で体育の授業を受けなくてもよくなるのはとても嬉しいことだった。
お気に入りの傘とお気に入りのレインブーツで登校した。
ランドセルが濡れるのなんて、全然気にならなかった。
雨が降る前のコンクリートのにおい、水たまりにしとしとぽちょぽちょと降る雨の音、雨粒が点々と美しい模様を作る紫陽花の葉、濡れそぼった薔薇、誰もいない公園、雨の色に変わったベンチ……それらをひとつずつ感じるのが好きだった。
「ねぇ沙保さん」
「なあに?」
「さっき、同窓会のお知らせがきてたって書いてあるのを見たんだけど、行くの?」
「え? あぁ、中学の同窓会のね」
SNSに書いたのは、ヒロキくんから電話がくる十分前のことだった。
わたしはなんとなく気分を良くして言った。
「どうしようかなぁって迷ってる。メールでまわってきたんだけど、全クラス合同らしくって。それもお花見シーズンにあわせて。人数もかなり多いみたいだし、正直クラスが違った子とか名前すら覚えてない子もいるしなぁ」
「そうなんだ。男の人もいっぱいいるよね?」
「たぶんね」
「そっかあ。妬いちゃうなあ。僕、独占欲強いから気になるんだよね。ごめん」
「ふふ、嬉しいけどね」
「どっちにしても、決まったらおしえてね」
「うん、わかった」
女のプライドを上手にくすぐるひとだ。
意識的に話しているのか、無意識なのか──。
そういえば、雅也はわたしの男友達のことを聞いたり気にしたりしない男だったなとちらりと思った。
自分に自信があるためか、それとも単にわたしの交友関係に全く興味がなかったためか、今となってはどうでもいいことだけど。
スマートフォンを持ち替えながらわたしは話題を土曜日の件に戻した。
待ち合わせは何時頃が良いか、と。
窓を打つ雨の音が少し弱くなった。
雨の日は耳の中の雨音も気になりがちだ。
電話をしていなかったらきっと今頃また長時間に渡って耳かきをしていたかもしれない。
ヒロキくんは必ずわたしが睡眠薬を飲んだことを確認してから電話をかけてきてくれる。
眠くなってきたらすぐに言ってねと前置きをして。
睡眠薬を飲んでから眠くなるまで一時間ほど、わたしたちはお互いの一日の報告をしたり他愛もない話をしたりする。