雨傘-7
くつくつとケトルが音をたてる。
ヒロキくんが珈琲の準備をして、わたしはカップの用意をした。
CDは今、『鳥籠』という歌の間奏を流している。
「すっぴん、見られちゃったね。恥ずかしい」
「すっぴんだと化粧をしているときよりなんだか幼くなったような感じがするけど、あんまり変わらないよ」
「恥ずかしい……」
ヒロキくんがにっこりと微笑んだ。
目元のほくろがきゅっとあがる。
密閉容器から出したばかりの珈琲豆の香りが、鼻腔よりもっと奥深くをほぐすよう。
思わず深呼吸をしてしまう。
膨らんだ珈琲の香りが身体を巡り、一杯目のそのひとくちに期待が高まる。早く飲みたい。
カップにドリッパーをセットする。
ヒロキくんの珈琲はわたしが、わたしの珈琲はヒロキくんが丁寧に淹れてくれる。
そういえば、耳の中の雨音が今はとても小さくなっている。
珈琲を淹れると部屋中がそのたっぷりの香りで満たされる。
部屋の中の温度がほんのりあがったような気さえする。壁が、ラグが、カーテンが、ベッドシーツが、すべてのものが珈琲の香りを吸っている。
とっぷりとミルクを入れ、ベッドを背もたれがわりにしてクッションを間に挟み、ふたり並んで座った。
「僕、この歌も好き」
「えっと、『目蓋』だっけ」
「そうそう。ちょっと暗めだけど、好きなんだよね」
やわらかいけれど重い低音の声が、懺悔にも似た後悔のうたを歌う。
伸びやかなファルセット。ヒロキくんもカラオケに行ったら、この歌をうたうのかな?
プリンを食べながら、わたしはヒロキくんにぽつりぽつりと昨晩の出来事を話した。
ヒロキくんは時折つらそうな悲しそうな顔をしながらわたしの話を静かに聞いてくれた。話が元カレからのメールに差し掛かるまでは。
「いくらなんでも酷いと思って、メールアドレスを拒否設定したんだけど──これが最後のメールなの」
そう言ってヒロキくんにスマートフォンを差し出した。
文面を読んだヒロキくんの顔が見たこともないくらい鋭くなった。
端正な顔立ちのひとはこういう鋭い表情になると、ほんとうに怖いと思った。背中がざわざわした。
「こいつ、許せないな」
「ここまでくると情けなくなっちゃった、わたし」
肩を落としたわたしに、ヒロキくんはゆっくりと首を横に振ると、「沙保さんは何も悪くない。情けないのはこの男のほう。沙保さんは何も間違っていない」と強い口調で言った。
わたしが口を開きかけた瞬間、ヒロキくんの手の中のスマートフォンが着信を知らせる鈍い音をたてた。
「あっ──」
メールの拒否設定はしてあったが、電話の拒否設定はまだだった。
鳴り続けるスマートフォンを手に、ヒロキくんが元カレかと聞いた。
わたしは小さく頷いて目を伏せた。
ヒロキくんが電話に出る。
わたしはびっくりして彼を見た。──彫刻の像みたいだ、と思った。無表情。いつもにこにこしているヒロキくんからは想像もつかないような冷めたような目だった。
しばらく黙っていたヒロキくんは、「すみませんが──」と静かに言った。
「はい、そうですね。沙保さんの男です。なので、もう沙保さんに連絡しないでくれませんか。昨日のメールも見ました。沙保さんを何だと思っているんですか。それに、君が過去に沙保さんに──特に耳に触れていたなんて考えると、僕は君の手を鉈でぶった切りたくなっちゃうんですよ。金輪際、沙保さんに近づかないでくださいね。君には君の女がいるでしょ。沙保さんは僕のですから、横取りなんてしようものなら、君のことを──、あら」
切れちゃいました──と、ヒロキくんがスマートフォンをわたしに返しながら言った。
「つい沙保さんの男とか言っちゃいました、ごめんなさい」
「あ……ううん。ありがとう」