雨傘-6
繊細なタッチと掠れた色のリバティプリントで作られた姿見カバーを小さく開き、自分の冴えない顔を覗き込んだ。
顔色、かなり悪い。
髪の毛はぼうぼうだし、目は腫れぼったい。
テーブルの上に置きっぱなしにしてあったブラウンのシフォンのリボンがついたバンスクリップで髪の毛をまとめた。
「こっちこそごめん。実は、部屋の前にいる」
脱ぎっぱなしにしていた上着を、明奈のお店で買った真鍮製のアンティークコートスタンドにかけ、ざばりと顔を洗ってベビーパウダーをパタパタとはたく。
そしてヴィクトリアズシークレットの“シアラヴ”をひとふき。
フローラル系のみずみずしい香りが広がる。このフレグランスミストの爽やかな甘い香りと華やかなパッケージをわたしはとても気に入っている。
「すぐ開けるから、待ってね!」
ガチャンと鍵を開け、ドアを開ける。
瞬間、空気がまるで足元をボールがすり抜けていくように動いた。
寒い。こんな、寒い中……。
「勝手に来てしまって、ごめんなさい」
怒られた子犬のようなしょんぼりとした表情をしてヒロキくんが言った。
わたしは、いいからいいからとにかく入ってと彼を促した。
ヒロキくんが来てくれた。
わたしを心配して、来てくれた。
そう思うと、胸がいっぱいになった。
「上着、そこにかけておいてね。エアコンをつけるから」
エアコンのリモコンを操作し、加湿器のスイッチを押す。
そういえばわたし、寒さなんか感じる余裕すらなかったんだ、昨日の帰宅後──。
「この傘、新しく買ったの?」
「あっ、そうなの。開きっ放しじゃ邪魔だったよね、ごめん」
「ううん、すごく素敵だなって思って」
ヒロキくんがコートをかけたあと、傘のそばのラグの上に座り込んで言った。
「あの曲──『螺旋』のジャケットの絵みたい」
「そう! まさにそうなの。友達のお店で見つけた傘なんだけどね、その傘も『螺旋』のジャケットをデザインした女性の絵なんだって」
ヒロキくんが嬉しそうにそうなんだと答えると、まじまじと露先から上へのぼるように丁寧に絵を見ていった。
そんな彼を見ながら、わたしは小さく深呼吸をした。
そして、借りたCDを流してもいいかと尋ねた。
「もちろん。気に入ってくれて嬉しいよ」
手に取ったのは『螺旋』の前に発売されたCDアルバム、『鐘』──ジャケットの写真は大半がモノクローム。
ピアノの鍵盤の左上に、一輪の釣鐘草が置かれている。
釣鐘草の色はモノクロームではなく、そうは言ってもまったく鮮やかな色をしているわけではない。
モノクロームのフィルターをかけたような、くすんだ色をしている。
鍵盤の下にはたくさんの楽譜が散らばっていた。
刻まれたビートの上を美しいピアノの旋律が流れ、ひとつずつ音が増えていく。
一曲目はまるでライブオープニング用のSEのよう。
ベースの重々しい音が絡まり、ギターがピアノの旋律を追いかけるように奏でる。
何かを囁くような声。色っぽいほどに掠れた男の声。
最後の言葉だけははっきりと聞き取ることができた。
“手を繋いでいて”
「沙保さん、風邪かなって思ったのでプリンとかゼリーとか買ってきたんですけど、食べる?」
プリン。
そういえば、わたし昨晩から何も食べていない。
「ごめんね、ありがとう。わざわざ買ってきてくれたんだよね」
「大したことないよ。珈琲、淹れよう」
わたしの家に来るのは二回目だというのに、ヒロキくんはこの部屋の中をすべて把握してしまっているかのように動いた。
カップの場所、カトラリーの場所、珈琲豆の保管場所までしっかり記憶しているようだった。
それがとても嬉しかった。