雨傘-5
耳の中の雨はまだ激しく降り続いていた。
電話の声が聞き取りづらくて苦労した。
そういえば、ヒロキくんからも連絡が入っていたんだ。
返事をしなくっちゃ。
「昨日はメールを返せなくてごめんね。体調を崩しちゃって、早めに休みました。遅くなったけど……バイト、お疲れ様」
返事をして、枕元にスマートフォンを転がす。
カーテンを締め切っていて薄暗い部屋に人々の生活する音が聞こえてくる。
ドアの開閉音、鍵を閉め、確認する音、革靴の音。
耳の中の雨音がそれらの音に重なる。
会社を休んでしまったこと。
罪悪感が大きく、少し後悔している。
でも、お風呂も入っていないこんな状態で行けるわけがない。
目覚まし時計が鳴って起きはしたが、身体に鉛が埋め込まれているのではないかと思うくらいに重く、また顔を動かすことすら億劫だった。
こうして朝から布団に入っていると、ひとり取り残されたような気持ちになった。
人々は皆それぞれの役割を果たすためにそれぞれの場所へ出向いていく。
社会人は職場へ、学生は学校へ。
幼稚園の送迎バスを見送る母親たちの会話、ご近所さん同士の挨拶、猫の鳴き声、ゴミ収集車の音楽。街には色々な音が入り乱れている。
今のわたしはどこにも属さない。
寝返りの際の衣擦れの音だとか、ため息だとか、そういった音ばかりを発している。
耳の中の雨音はきっとわたしにしか聞こえない。
誰からも何も言われたことがないからだ。
雨音は時々、ぼつぼつ鳴る心音と同じ速度になったり、急に乱れたりした。
瞼が重く、瞬きをすることすら億劫だった。薬が残っているのかもしれない。
スマートフォンが鳴った。
この音は唯一わたしを現実に引き戻してくれる正しい音だった。
手を伸ばして内容を確かめる。
元カレのアドレスは拒否設定していた。
「沙保さん。心配しています。会いに行きたい」
ヒロキくんの子犬のような表情を思い浮かべる。
懐っこい、ほんとうに人当たりの良い笑顔。
「あえるような状態じゃないや、ごめん」
気持ちはとても嬉しかった。
ありがたかった。でも、こんな姿は見られたくない。
ヒロキくんだけには……見られたくなかった。
スマートフォンの画面を見ていると頭がぼーっとしてきて、瞼が落ちそうになった。
瞼と瞼がくっつく。わかっていたのはここまでだった。
しつけ糸がぷつりと切れるように、わたしは再び薬が作り出す眠りの世界へ落ちていった。
それから数時間後、耳元で鳴ったスマートフォンの鈍いバイブ音に目が覚めた。
榊さんから、わたしの体調を心配する内容のメールが届いていた。
その前に、未開封のメールが二通。
「沙保さん、僕は沙保さんがどんな状態でも大丈夫です。沙保さんがパジャマ姿を見られたくないと言うのでしたら、僕はずーっとバイク用のサングラスでもかけとくから。とにかく心配なんだ」
「沙保さん、寝ちゃったのかな。ごめん、いてもたってもいられなくて来ちゃった」
わたしは驚いて、思わず布団から飛び起きた。
今、何時?
このメールから、いったいどれくらいの時間が経っている?
最後のメールは今からだいたい三十分ほど前に送られたものだった。
三十分。三時間だとか半日だとかではなかっただけ少しホッとしつつ、慌てて返信をした。
「ごめん! 薬を飲んでて寝ちゃってて。今、来てくれてるの?」