雨傘-4
部屋の電気をつけると、いつも通りの自分の空間が広がっていた。
どさりと鞄を置く。
包装を解き、雨傘をふわりと開いて壊れているところはないか丁寧にチェックしていく。
惚れ惚れするほど緻密な蝶々の模様。──大丈夫みたい。よかった。
わたしは傘を開いたまま床に置くと、その場に静かに横になった。
身体が床とラグの半分ずつに分かれてぺたりと吸い付いていく。
床に寝そべるとその冷たさにさらに体温がさがるような気がした。
自分の髪が顔の横に広がる。目は傘を見つめていた。
灰色がかった薄紫。
きっとこの傘は今まで使ってきたどんな傘よりも雨が似合う。
蝶々の上を雨粒が滑り落ちていくところが目に浮かぶようだった。
傘が折れたりまがったりしなくてよかった。
華奢な手元に亀裂が入ったり、親骨や受骨が変な方向を向いてしまったりしていたらきっとわたしは立ち直れなかった。
菜里香がこの傘を壊さなくてよかった。
菜里香を、これ以上恐ろしい存在だと思いたくなかった。
大好きだった友達。
いろんなことを話して、たくさんプリクラを撮って、お洒落なカフェを彼女と何軒もまわった。
同じ時間を過ごし、同じ思いをわかちあってきた。
その思い出も今はもうただの過去になってしまった。
何の意味もない、ただの過去に。
わたしの手からいろんなものを叩き落としていった菜里香。
大好きだった菜里香は、今はわたしに敵意を抱いている。
あの頃いっしょに同じ俳優の演技に胸を躍らせた菜里香は、今はわたしを邪魔な存在だと感じている。
記憶の中の笑顔が塗り潰されていく。
何もかも変わってしまった。何もかも。
あぁ耳かきがしたい。
耳がガサガサいっている。
耳かきがしたい。耳かきがしたい。ガサガサ、ガサガサうるさいわ。
鞄の中でスマートフォンが鳴っている。
一回、二回、三回……電話だ。
誰からだろう。そう思っても、身体は思うように動いてくれなかった。
スマートフォンの音と耳の中のガサガサ音が響く。
そのうち電話が鳴り止み、しばらくして今度はメールがきたことを知らせる短いバイブ音が聞こえた。
わたしは身体を横へ引きずるようにして鞄を掴み、スマートフォンを取り出してメールの内容を確認した。
「なん……なの」
最低だ。
わたしはスマートフォンを投げ出すと両手で顔を覆った。
そして気付いた。この耳の中のガサガサ音は、雨の音に少し似ている。
何もかもを洗い流してしまえそうな、白いビニール紐を束にしたような雨。
傘を壊してしまいそうな土砂降りの雨。
前も後ろも横も雨の壁に遮られ、滝壺の中へ放り込まれたような気さえする。
そんな音が耳の中でやかましいほどに響いている。
大きなため息をつくとわたしは力を込めて立ち上がり、ベッドへ近づいていつもの倍の量の睡眠薬を手にとって口の中へ放り込んだ。
冷蔵庫の中のミネラルウォーターでそれらを一気に流し込む。
上着を脱いでその場に落とすと、化粧を落として顔を洗い、歯磨きをした。
ペパーミントの歯磨き粉の香りが、鼻の奥の上のほうに張り付いていた涙の気配とため息を溶かしてくれた。服を脱いで洗濯機に放り込むと、ジェラートピケのワンピースを頭から乱暴に着て電気を消してベッドに入った。
もう何も考えたくなかった。
元カレからのメールには、“ねえ、メール返してよー。待ってるからさあ。ぶっちゃけ菜里香じゃ物足りなくなってきて。やっぱ俺、沙保じゃないと身体がダメっぽいわ”と書かれていた。
「すみません……ご迷惑おかけ致します」
会社に当日欠勤の連絡を入れ、再び布団に潜り込む。
薬を倍飲んでも目覚まし時計が鳴るとなんとか起きられるのは、やはり習慣付いているからなのだろうか。
それでもやっぱり頭がぼーっとする。