笛の音 4.-8
「……わたし、明彦さんと結婚しようなんて全然思ってません」
「そうだね。有紗ちゃんにはまだ、トラウマ? ……忘れられない男がいるんだろ?」
冷徹な視線。このところずっとコドモに堕した蕩けた目しか見ていなかったから、彼の聡明な頭脳が働くところを見るのは久しぶりだった。
「……」
分析されては危ない。何も言わず黙って睨んでいた有紗は、壁際まで追い詰められ、逃げられないように両手を突いて左右を塞がれた。
「こういうのは、ちゃんともっとムード出してやってください」
「ムード? そんなキャラじゃないし、そういう状況でもないよ」
「じゃ、何なんですか? これ」
明彦が至近にまで顔を近づけてくる。目を逸したかったが、そのリアクションすら何らか分析されそうな気がして、有紗は必死に恬淡さを保って明彦を見つめ返していた。
「……なんで、前原部長にそんなこと言われなきゃいけないんだ、って思ったよ。どう考えたって、有紗ちゃんが俺と結婚したがってるって思えないのにね」
間近に見る明彦の貌からは有紗と自分を嘲る笑みはまだ消えていない。「俺を手でヌクのも、明らかに嫌そうだし……、それしてるとき、別のこと考えてたよね?」
「それがわかってても、させ続けるなんて、……へ、変態ですね」
最後噛んでしまった。狼狽えているのがバレてしまったかもしれない。いや、疾に明彦は表情と声音から胸の内を読み切っているだろう。
「だね。……変態と結婚したがる子なんているわけないし? ……同じことを前原部長にも言ったんだ。有紗ちゃんは、俺と結婚するつもりはなんてないでしょ、ってね」
「……」
「『大丈夫だ』って言われた」
「……」
鼓動が高鳴り息が荒くなってくる。
「信じられなかったよ。……自慢気にスマホで見せられた。前原部長は俺が興奮するだろう、って思って見せたみたいだけど、全然興奮しなかった。っていうか、どうしようもなく腹が立った」
言葉を繋ごうとした明彦は、こみ上げてきた何かに妨げられて、声を詰まらせ、壁に手を突いたまま項垂れた。
「……勝ち誇ったように見せられた。『有紗は俺の物だ、一生抱かせないが、尻と手で我慢できるなら、結婚させてやる』ってね。殴っちまいそうなのを抑えるのに必死だったよ。あの人はそう言ってる自分に酔ってたから、俺がそう思ってることには気づいてなかったっぽいけどね」
今日明彦に会う、と言っても、信也は電話はしてこなくていいと言った。新小岩までベンツで迎えにも来ない、と。有紗に温情を与えているかに見せかけて、それを伝える顔つきは優しさとはほど遠かった。有紗を屈服させた自信に加え、結婚を餌に明彦をも支配下に置いたことで生まれた傲慢が為せる業だったのだ。
「……俺の女神様が汚されちまった」
しかし信也は安心しすぎていた。明彦の腹の底に義憤を沸かせてしまったことに気づいていなかった。
「じゃ、じゃぁ……、なんであの人の言うとおりにしてるんですか?」
明彦が壁から手を離した。肩を竦めて背を向け、ソファのほうへ戻っていく。有紗ではなく中有へ向かって、
「報復と罪滅ぼし」
と、真逆の二つの言葉を呟いた。
「いやだっ」
道行く人が好奇の目を向けてくるのにも構わずに、歩道で直樹が強く抱きしめてきた。「やめて、有紗さん。……なんでだよっ」
有紗は直樹の体に手を回さなかった。ダラリと腕を垂らして、直樹に身を預けていた。
「セフレが結婚する、とか言ったら、やっぱ怒るよね」
大きく溜息をついたのが、抱きしめているとよく伝わっただろう。「勝手だね」
「セフレじゃない」
「……じゃ、何?」
「それは……」
セフレに替わる言葉を探すいとまを与えずに、有紗は、
「……私ね」
上躯に回っていた直樹の手をゆっくりと外した。笑顔で見上げる。「私、セフレだよ? セフレにしてって言ったんだもん。でもね……」
直樹は今にも涙を流さんばかりの顔を有紗に向けていた。瞳が曇っている。塾の帰りに待ち合わせて、無邪気に笑いながら、やがてふっとお互いのタイミングがあってキスをした時に見た澄み切った瞳は、もう目の前には無かった。再会した時に変わらないと思ったのは、懐旧が実際以上に美しく見せた幻影だったのかもしれない。そう思うと、有紗が先に睫毛から雫を落とした。
「でも、私、やっぱりセフレじゃ我慢できなかった。……直樹が、『彼女』と会ってるときさ、すっごい辛かった」
鼻を啜って、自分に呆れた顔をする。「彼氏使って横浜まで追っかけてっちゃうんだもん。裏に呼び出してキスさせちゃうんだもん。頭おかしいよね? わたし」
直樹に触れているのに乾いている。潤いも帯びてこないし、キスの味がしない。恐らくはまだ、直樹に対する不安を払拭できていないからだ。
「……だからもう、やめるの。セフレってこんなに辛いって思わなかったから。もう、……やめるの」
「だから、結婚するの?」
「だめ? その方が辛くない」
直樹は有紗に払われたのに、また抱きしめてきた。身も心も乾いていると、力が強すぎて痛い。