笛の音 ４．-10
有紗の手が、自然と周囲に投げつける物を探した。だがこの聡明な男はそれすら読んで、周到に近辺に危険な物を置いてなかったとでもいうのか、手回りには何も見つからなかった。
「最低っ……！」
物理的な武器が見当たらずヒステリックに絞り出した有紗に被せて、
「だから、どっちがだよって」
と明彦が言う。
うるさい。お前の汚らしい淫欲と直樹に対する気持ちを一緒にするな。有紗は立ち上がって、もうこの部屋には二度と来るまいとバッグを手に取った。
「……カッとなって勘違いしてるよ？ 別に報復のために有紗ちゃんに手でさせてたわけじゃない」
明彦は物知り顔で様子を伺っている。
「なんですか、それ」
有紗は冷ややかに明彦を見下ろすと、「私はいつも最っ低な気分でシゴいてましたけど？」
「知ってるよ。……でも俺には女神様だったんだよなぁ」
「バカにしないでください。なんなんですか？ いったいっ……！ ハッキリ言ったらどうなんです？」
そのまま出て行ってもよかったが、明彦の態度には有紗の悪事を晴らした他にもまだ何か含んでいるように感じられたから、怒りに任せて退室したいのを寸出のところで抑えて明彦に詰め寄った。
「……だから、女神様だったんだ」
「は？」
「だった。過去形だよ」
それはそうだろう。裏切った女をいつまでも女神と崇めていられるわけがない。何を当たり前のことを言っているのかと思ったら、明彦がスマホを少しイジり、程なくして玄関のチャイムが鳴った。
「……宅急便か何か、きましたけど？」
「たぶん、ちがうよ」
明彦が立ち上がり、玄関に向かう。有紗は憤怒の息をついて、明彦との関係が終焉する決定的な瞬間を待った。報復と罪滅ぼし。直樹のことを知っておきながら、密戯を続けさせたことが報復ではないと言う。では何が報復で、何が罪滅ぼしだというのだ。何にせよ、その意味が明らかになった時、彼との仲らいが終わる。
部屋に戻ってくる気配がした。振り返り――、驚愕が大きすぎて悲鳴は出なかった。
「……殺してやるっ！」
自分自身、こんな野蛮な言葉が出るとは思わなかった。部屋に入ってきた明彦の背後から、小さな歩幅で出てきたのは、伏し目がちに手を前に結んだ愛美だった。有紗は一切を承知した気になり、一切の理性が閃光のような激昂に散消して、気のふれた形相で明彦に向かって飛びかかろうとした。
「おねえちゃんっ！ まって！」
愛美が行く手を阻んだ。なんだ、妹としてこんなに大切に思っていたのに、辛い思いをしてでも守ろうとしてきたのに。そこをどかないと、この手が明彦もろとも華奢な体をなぎ倒してしまう。「……おねえちゃんっ！」
二人に向かっていった有紗は、立ちはだかった愛美の方から飛びかかられた。ぶつかった反作用で後ろに蹌踉めくと尻もちをつく。強かにフローリングに体を打ち付けた有紗だったが、愛美は体に手を回したまま離れてくれなかった。
「愛美、はなしてっ」
「やだっ！」
更に愛美がしがみついてくる。有紗は床に尻をついたまま顔を上げると、明彦が虐げも恨みもない、何故か憐れむ目で二人を見守っていた。訳のわからない表情だった。混乱している有紗の胸元に顔を押し付けた愛美が頻りに首を振る。
少しの暴力を込めれば壊れてしまいそうな妹なのに、引き止める腕は意外に強く、身動きができなかった。左右に揺れるボブを眺めているうち、その向こうの背が時折嗚咽にヒクつき始める。その悲哀の光景は有紗の憤りを瞬く間に覆い隠してきた。明彦の前では認められなかった己が非を、愛美に対しては安々と認めさせられて、そうすることで妹に対する憎しみを消して謝ることができるかもしれないと思った。震える手を愛美の髪に置く。柔らかな手触りは事実有紗の沸騰を冷まし、唇を彼女の脳天に押し当てると、妹に許しを乞う決心をつけることができた。
「……おねえちゃん、ごめんなさい……。ごめんなさい」
だが先に口を開いた愛美に機先を制され、「……ひっ、……っ、おねえちゃん……」
続きを言おうとしても嗚咽が止まらないらしい。直樹と会っている時、あんなにも恨めしかった妹だったが、こうして抱きあって泣かれると、やはり不憫さに心が痛んだ。涕泣する愛美を抱きしめる手に、もう憎悪は宿らなかった。ごめんなさい、許して。そう言いたくても、胸元に感じる妹の涙は、そんなありきたりの言葉では贖えぬほど熱く染み込んでくる。
「……仕返し、するつもりだったんだ」
二人に明彦が声をかけた。「有紗ちゃんに、仕返しを」
遠くに放り飛んでいた有紗のバッグを拾い上げ、ソファに置き、彼はもう一度深く座った。大きな息をついて両手を握ると、額に押し当てる。手の陰からは明彦の苦渋が垣間見えていた。
「……有紗ちゃんに裏切られたと思ってさ、何とか仕返しをしなきゃ、気が収まらなかったんだ。……で、思いついた。そっちがそんなことするんなら、こっちも、ってね」
有紗が愛美の嗚咽に揺れる背を撫でながら明彦の方を向いて話を聞こうとすると、一旦弱まっていた妹の腕の力が強まって、これから何を聞かされても姉を再び激昂させるものかという意志が感じられた。つまり、それだけのことを聞かされるのだ、そう思った有紗は、まるで自分の心をも宥めるように妹の背を摩った。