半世紀の時を経て-8
「時間、っちゅうのは全ての人間に優しいんやな……」ケネスが静かに言った。
横で一緒に読んでいたマユミも穏やかに笑みを浮かべて目をしばたたかせた。
「わたし今日届いたその手紙の差出人見た時、どきっとしたで」
「『神村』やったからか?」
シヅ子は頷いた。「その上、下の名前があの人と違うやろ? まさか亡くなってもて、その知らせか、思たで。しかも、ほとんど誰も知らん、わたしすら封印しとったあの出来事の関係者が、なんで今頃、思た」
「おかあちゃんは」ケネスが手紙をシヅ子に手渡しながら言った。「もしその手紙で神村さんが亡くなった、聞いとったらどんな気持ちになっとったんやろな」
「それは、」
シヅ子は手紙を握りしめたまま、少しの間考えていた。
「心がざわついたやろな。もやもやしたもんが残ったままになったかもしれへん」
「どういうことや?」
「あの人がその後、家族とどうなったか、っちゅうことがやっぱり一番気がかりやった。それにあの人、悪人でもあれへんのに、わたしとの関係をずっと引きずって悶々と後悔し続けとるんとちゃうかな、思とったから」シヅ子は顔を上げて微笑んだ。「そやけど、この手紙もろうて、すっかり安心さしてもろた」
「ええ息子さんやな。この人自身がおかあちゃんと別れた神村さんの奥さんへの愛の証っちゅうことやからな」
「そうやな」シヅ子は穏やかに目を伏せた。
「夏にうちの店に来た、言うてはったけど、おかあちゃんは気づかへんかったんか? この息子さんに」
「気づいた、っちゅうより、もうびっくり仰天してしもたわ。体型も声も髪型も笑顔もあの人と瓜二つやったから」
「ばればれやったんやな」
「いやいや、もちろんそれがあの人の息子やなんて思うわけあれへん。そらそうや。歳格好が、あの時のあの人と同じなんやから」
「そう言えばそうやな」ケネスは笑った。
「世の中には、まあ、よう似た人がいるもんやなあ、思たで」
ケネスがにやりとして言った。「どきどきしたり、せえへんかったか?」
「せえへんかった」シヅ子はオウム返しに言った。
ケネスは肩をすくめた。「へえ」
「懐かしいだけやった。もう今さらときめいたりせえへんて」シヅ子は人差し指を立てた。「わたしがどきどきすんのは、今はアルバートだけやさかいな」
ケネスは呆れたように笑った。「まだどきどきすんねんな、親父に。幸せなこっちゃな、二人とも」
「素敵なご夫婦ですね」マユミも笑った。
シヅ子も少し照れたように笑った。
「この手紙、読ましてもろたら、もうこれで、ほんまにわたしもあの人もあのことを忘れられる、思た。あの人がこの中で言うてた通り」
ケネスが悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。「わいは決して忘れられへん、思うで、おかあちゃんも神村さんも」
「え?」シヅ子は怪訝な顔で息子を見た。
ケネスは爽やかな顔で言った。「別に忘れんでもええやんか。その出来事はもう大昔のことやし、ある意味それがあったから今の親父との濃厚な時間もあんねやろ?」
「そうなんかな……。確かに今はもう、淡い夢みたいな出来事に思えるな、あのこと」
「淡い夢? それにしては微に入り細に亘り、臨場感たっぷりで話しとったやないか。まるでエロ小説聞かしてもうてるみたいやった。わい、なかなか興奮して身体がむずむずしとる」ケネスは横に座った妻マユミの手をテーブルの下でぎゅっと握り、横目でシヅ子を見ながら続けた「おかあちゃん、今でもはっきり覚えとんのやろ? まるで昨日の出来事のように」
シヅ子は観念したように言った。「忘れとうても忘れられへんがな……」
「その夢のままで覚えといたらええやん。今となってはもう二人が燃え上がることなんかあり得んし。愛しかった気持ちとか、切なかった気持ちとかと一緒に覚えとったらええがな。きっと神村さんもそう思てる」
「ケネス……」
ケネスは自信たっぷりに、少しふんぞり返って言った。「今の手紙読んだら丸わかりやんか。あの人絶対死ぬまで忘れたりせえへんで、おかあちゃんのこと。おかあちゃんを本気で好きやったこと」
「困ったな……」シヅ子は苦笑いをした。