HELLO警報-2
思わぬ助け舟を出してもらった僕は、どうにか大学の研究室の前に着いた。十中八九、研究室に一番乗りなのは僕であった。家が近いという理由だけで、研究室の鍵を開けてパソコンを立ち上げる係を教授直々に任命されたからだ。
だが、その日は鍵が開いていた。中に人がいる気配もする。麻倉先生だろうか? もしそうであったら……、まあ悪くはないだろう。今年は修論も出さなきゃいけないし、先生とは縁があって損はない。
それとも、助手の工藤さんだろうか? 工藤さんにはプライベートでもお世話になっているし (僕が知っているお洒落な飲み屋は、全部工藤さんに教わった)、ラッキーパーソンとしては願ってもない好人物である。
あれこれと逡巡しているうちに、思わぬハプニングが起こった。
「こんにちは、結城先輩!」
背後から聞き覚えのない女の子の声。僕は完全に不意をつかれた。
研究室にいる誰かが、今日のラッキーパーソンだと思ったのに……。まさか、背後から奇襲を受けるとは。見ず知らずの女の子に「こんにちは、結城先輩!」と……、ん?
「どうしたんですか、先輩? 固まっちゃってますけど」
不意をつかれた僕は、ラッキーパーソンに背を向けたままフリーズしていた。後ろからでも僕の名前が分かったその女の子は、僕を知っているに違いない。田中とか鈴木とかいう名前ならともかく、僕の名前は結城っていう珍しい名前だ。適当に呼んだのではないことは明らかである (そもそも、適当に名前を呼ぶ人はいないだろうが)。
とりあえず、顔を確認しようと大きく回れ右をした。そのときの回れ右は、錆付いたブリキのおもちゃのようにぎこちない動きだったと思う。
そこに立っていたのは、四年生の楠木沙羅だった。卒論の指導で何回か話したことはあったと思うが、声だけでは誰だか分からなかった。
この子が僕のラッキーパーソンか、と思いながらじろじろと値踏みするように見てしまった。いやあ、今思えばセクハラといわれても仕方ないくらい熱視線を送っていたね。
前髪をそろえた黒く短い髪。そばかすが目立つこぢんまりとした顔。メイクも極めてナチュラル (黒っぽい口紅以外はしていなかったのかもしれない)。よれよれの抽象的なTシャツ。
印象的な女の子と曖昧な女の子の二つに分けるのであれば、後者であると断言できる。街ですれ違ったとしても、きっと見過ごしてしまうだろう。
それなのに、そのときは、ドキッとするくらい印象的だった。
言葉にしてしまうと、とても陳腐になってしまう。
言葉って、せいぜいそんなもの。
「どうしました? 今度は私を見て固まってますけど」
僕はすぐに彼女から視線を逸らし、何事もなかったかのように研究室に入ろうとした。顔が赤くなってしまったのを悟られたくなかったからだ。
「ちょっと、無視しないで下さいよ! 質問したいことがあるんですから」
今まで気にしていなかったことでも、一度気にしてしまうと、どうにもならないくらい意識してしまう。子供の頃、一度呼吸の仕方を気にしてしまうと、上手く呼吸ができなくなるという経験があった。このときも、似たようなものだった。一度異性として意識してしまうと、どうやって対応すれば良いのか分からなくなってしまう。
あの日は、僕にとっては多いにメモリアルなんだ。だって、ラッキーパーソンに恋をしてしまったんだ。少しばかり、占いも良いものかと思ってみた僕なのであった。